虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

進展

 しばらくネットの世界から離れていた。多分、十日くらいは経ったんじゃないかと思う。一応、現実世界での報告をいくつか。
 この十日間で一番のビッグ(?)ニュースは、古物商の許可申請の手続きが進んで、四日前に警察から営業所の確認があったことだ。営業所といっても、ネット古書店なのだから、ただの自宅であって、机の上にパソコンが置いてあって本棚があるだけのことなのだけれど。古物商の申請で担当してくださった刑事さんが来て、机の写真と本棚を作業場の写真としてぱしゃぱしゃ撮っていった。不意に文学部だったかどうか聞かれて、質問には勿論、イエスと答えた。それからちょっとした話をして、ものの数分も経たない内に帰られていった。刑事さんは忙しい。私のような暇人に時間を取らせてしまうのも何だか申し訳ない気持ちになりながら、それでも十日後辺りに許可が下りれば許可証を取りに来るように、と云われた時は、嬉しかった。多分、申請は通ってくれていると思う……。

 いま書いている小説は原稿用紙換算で270枚を超えた。小説は量ではなく中身であることには違いないが、眼に見える数字というものも自分が確かに歩んできた言葉の道程を示す距離のように思えて、少しばかりマラソンランナーのような気分にはなる。書きながらランナーズ・ハイの気分の時は最高だ、読み返すとその部分だけは本当にこれを自分が書いたのかと不思議になったりもする。自己満足と云われればそれまでだが、多分作家になるような人間は、自分の書いた文に関して自己肯定するようなエゴイズムがなければものにならないような気もしている。自分が信じてもいない文章を他人に読ませるのは不実であると思う。枚数の話に戻すと、原稿用紙換算250枚以内というのが、狙っている純文学賞(群像、新潮)の応募規定となっていて、多分いま書いている話はどう書いてもその枚数に収まらないので、メフィスト賞に出そうと考えている。メフィストの規定分量なら、問題は無い。ただ基本的にはエンタメの賞というのが唯一ひっかかる。Twitterで、いままでこの賞に応募されてきた方(藤崎さん)にいくらか話を伺ったが、カオスな賞であるということを話されていた。HPと応募要項と出身作家を見れば何となく気付いていたが。取り敢えず、対策のつもりで第一回受賞者の森博嗣の『すべてがFになる』を読んだが完全に理系ミステリの化物だった。というか、恐らくこの賞は、小説の化物みたいな人間ばかりが受賞している気がする。純文だって上に行けばそれは同じなのだが、小説のベクトルが明らかに違うように思っている。喩えるなら、小説のひとつひとつの歯車をいかに美しく仕上げるかという点よりも、そのひとつひとつの歯車を組み合わせていって、どれだけ精巧な仕掛けの造りのものが出来るかを競っているかのような、そんな印象を受けるのである。これは、個人的な純文とエンタメの違いの意見だ。面白ければ本になる、という言葉の方を私は信じたい。この後、藤崎さんに教えて頂いたメフィスト賞作家の中で純文学寄りの作品を書いた白川三兎の『プールの底に眠る』を読むつもりでいる。

 今日は百貨店で古本市をやっていたので行ってきた。二時間くらい粘って売り場を回って、結局買ったのは文庫本四冊で、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」とジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」の二巻以降を買った(一巻は所持)。古本を買う時に決めているルールがひとつあって、それは自分の本棚に絶対に入れておきたい本かどうか、というのを私はひとつの基準にしている。安い、というだけの理由で買い漁っていた時期もあったのだが、いざ買ってみて並べてみると、コメントを付ける気にならないような本はいくら安くても買うべきではないし、これも文章と同じで、自分が良いとも思っていない本をお客さんに売るのは、お客さんに対して不実であるように思う。この点に関しては異論を唱えられても仕方ないが(文章とは違って古本屋は商売なので)、私はその点には拘りたいなと思うし、それが自分の店のカラーというか特色になってくれるんじゃないか、とやる前から思っていたりする。いずれにせよ、少しずつ準備は進めているので、オープンが秒読みになれば、また告知させて頂きたく思っています。
 最後に、三末に応募した文藝賞なのだけれど、選考連絡の電話がなかったので、九割九分九厘、落ちていると思う。落選はこれで五度目だろうか。割と自信がない訳ではなかったので、悔しい気持ちもあるけれど、それ以上にいま書いている小説にのめり込んでいる。受かるまでやるだけだと思っているし、私に残された道はそれ以外にないと、ずっと昔に腹は括っている。なんなら小説と心中しても構わない。自分の骨を埋めるのは言葉と虚構の中にしかないと思っている。だからいつか、虚構で(自分の本を売って)朝食が喰えるようになったらと、そのブログタイトルのような瞬間だけを信じて、行けるところまで行ってみたい。

 文藝賞に落ちた作品は改稿後、電子書籍として発表するつもりです。一応、武内一馬名義の第二作となります。いま書いている小説を読まれた方が一名居られますが、できればこの三作目は、実際の本になってくれることを信じます。
 遅くなったので、今日はこれまで。本当は20時頃からこのブログを書いていたが、弟が実家に帰ってきて久しぶりに話をしていたので、途中までしか書かなかった。

 

 see you again.

 kazuma

 余談:因みに我が弟は、プルーストの「失われた時を求めて」を読破していた。今日会って古本市で見つけたジョイスの本の話題を持ち出すと、一年前に全巻読み終えていた、と聞いて心底驚いた。弟の方が小説家になれんじゃねえか笑 と思ったが、やはり腐っても兄貴なので、小説家になるのは私の方だ。書くようには薦めてみたけれど、他のことで負けてもそれだけは負けるわけにはいかない。あと全然関係ないけど、メフィスト賞シャーロック・ホームズ像は死ぬほど欲しい。乱歩賞のものと同じものだってさ。

 

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作家志望の孤立

 文士村、文学サロン、文芸部・サークル……文学団体ということを考えた時に浮かんでくるのはこれらの言葉。私はこれらのものに少なからぬ憧れを持っている。そのどれもに一度も所属しなかった。この文章は、孤立している作家志望の方にはご理解頂けるものだと思う。多かれ少なかれものを書く人間は、相対的にひとりでいる時間が長く、性格的にも、基本的に孤立しやすい傾向にあるのかもしれないし、それは若年層で言えば更に顕著なデータだって調べれば上がってくるのではないだろうかと個人的に思っている。私の場合が単なる一ケースに過ぎないのか、それとも他にも孤立している作家志望の方が相当数いらっしゃったりするのか、正直なところ、よく分かってはいない。今回のテーマは、孤立している作家志望の方同士で繋がれないだろうか、という話。 

 TwitterのTLを追っていると、何となくひとりなんじゃないかとか、あるいは、何らかの物書き同士の繋がりを求めているような方が散見されたりするのだが、ご本人がどう思われているかまでは、メンタリストでもないので、踏み込めない。あるいは私の勘違いで、孤立して書いているような無人島作家みたいなことをやっているのは私だけなんじゃないかとか、時々思ったりもする。仕事があれば、ものを書く人間以外の接点だったらいくらでも出来るだろうが、辞めてしまってオンライン古書店を始めようとしている私は、大抵の時間をひとりで過ごしている。勿論、それは私が望んだことなのだが、いざ辞めてみると、仕事での繋がりであろうが、そういう人間関係は大事なことだったんだな、と改めて気付く。小説は仕事をしていた時よりも進むようにはなったし、体調も少しずつよくなってくれるので希望もない訳ではないのだが、それ以上に人間関係資本がゼロになった、というのが正直キツい時がある。そうなるまでには色々の事情があったが、私の場合は特殊なので、あまり一般解を求めることは出来ない。その辺りのことはまた別の段階で語るか、小説の中に昇華してしまうしかないだろうと思っている。

 本題に入ると、それぞれ事情は違うだろうけれど、何らかの形で孤独にならざるを得ず、それでいてものを書いたり、本が好きな方はいらっしゃらないだろうか? ということを、読んで下さっている方に訊いてみたいのです。その中にもし、自分は該当しますよ、という方が居て、コンタクトを取っても構わないのであれば、ブログのコメント欄上でもいいので、ちょっとした文学の話なんかを出来ればいいなと、私としては思ったりしています。

 私事ですが、大学時代に文学部に所属していましたが、何故か私の周りに居たのは本をまるで読まない友人ばかりで(彼らのことは人間として好きでしたが)、好きな本や小説について語れる相手がいませんでした。探せば居たのでしょうけれど、本格的にのめり込むようになったのは二年次以降なので、文芸部に入部するには遅く、アルバイトも結構入っていたので、何となく身の回りの友人達とだけ時間を過ごして卒業しました。卒業してから書店で短い間働き、そこではじめて小説好きの友人にひとり出会ったのですが、彼は東京に居て、こちらからは年に一度会うくらいのものです。彼以外に小説について語れるリアルの友人というものはいません。けれど、ネット上には何人もアドバイスをして下さった方が居られて有り難く思っています。私自身、あまり社交的な人間ではなかったので、多分会う人間の母数が少なすぎて、小説が好きな人間に会わなかったというだけかもしれません。ネットなら一応、便宜上は全世界の不特定多数の方がいらっしゃるので、もしかしたら自分と似たような状況の方がおられたりするのかな、ということを思って書いています。

 このブログを始める前に、livedoorのブログをやっていたことがあるんですが、その時から、いつかネット上でもいいから文学談義や、友達とやるようなしょうもない話でも出来たらいいなと思っていました。前のブログでは二、三人の方がそれに応じてくれて、その時の文章のやり取りみたいなものは、とても刺激的なものでした。

 文芸部みたいなものに入っていたら、きっとそこで仲間が出来たかもしれないな、と思ったり、現実の古本屋を開いて、そこを文学サロンみたいに出来ないかと思ったり、現代に文士村があったら速攻でそこに引っ越すのにな、なければ造ればいいんだ笑、と思ったり……ただの妄想に過ぎないかもしれませんが、まずはネット上で、そういう小説や文章の繋がりがもっとあればいいなあと思い、それで始めたのがこのブログでした。

 もし賛同して下さる方が居られたら、このブログでもTwitterでもいいので、お声掛け頂ければ幸いです。基本的に、必ず返信は返すように致しますので。

 

 Twittterアカウント:@kazumanovel  までリプライ、DM等受け付けています。

 はてなブログ :「虚構世界で朝食を」(当サイト) コメント欄等で受け付けます。ゲスト・モードにしてあるので、はてなブログ以外の方もコメントを残せるようになっているはずです。

 (※もし個人的に連絡を取られたい方がいらっしゃいましたら、TwitterのDMを下されば、メールアドレスを交換しても構いません。)

 

 kazuma

 

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余談:「純文学作家志望の孤立」って書くと何かラノベっぽくて止めた笑

スタート地点のスタート地点

 この一ヶ月、頭の中が破裂しそうな時が沢山あった。何度か病院にも行った。医者から薬をもらって飲んだ。治らないことは分かっている。道ばたで偶然すれ違った、かつてのクラスメイトに非道いことを言われたような気もする。多分、どうでもいいことだ。仕事を辞めてからは、あまりまともに他人と喋っていない。必要最小限度の会話。機械のように喋るイエスとノー。今まで、自分をぎりぎりまともな方に引っ張っていてくれたのは、かつての職場の人達との会話があったからかもしれない。ひとりになると頭の中のモノローグが止まらなくなったりすることがあって、似たような感覚は、昔、自分が大学生だった頃に狭っ苦しいワンルーム・アパートに住んでいた時にも感じていた。あの時はニーチェを必要な食べ物か何かのように貪るように読んで、最終的には彼の最期と同じく気が狂って家を飛び出した。もし病がなかったらと思うことはあるが、「IF」の話が出来るのは虚構の中だけだ。いま公募向けに書いている小説は、かつて間違った選択をした過去の自分に対して、正しいものを選ぶように、未来である自分から語りかけようとしているように感じる。過去の自分がいま書いた物を読むようなことがあれば、彼がこの未来を選ばないような小説を書きたいと思っている。でも、本当のところは分からない。小説が出来上がったとしても、その小説が存在しなかったとしても、結局私は――私たちは――何十万遍も同じことを繰り返し続ける気がする。生きる答えが書かれている紙が存在するとしたらそれに全財産を擲っても良い。もっとも、私の財産など高が知れているので、一文字も読ませてはくれないだろう。神は基本的には意地が悪い。答えなんか教えることもないまま、何処かへ行ってしまったみたいだ。

 私の半分は既に狂い切っている。他人が居る場所で誰かと話をしたり、公共の場に出るような時は、残り半分の造られた仮面を前に一生懸命持ってきて、狂った部分を隠そうとする。最初の数十分は何とか上手くいく。二、三日ならぎりぎり保つ。だが一週間も経てば、その仮面は既にぼろぼろになって、合間からは醜く狂った私の本当の顔が姿を現す。私はきっと世間が言うところの真っ当さを何一つ身につけず、大人と子供の中間の奇妙な生き物になった。真っ当に育たなかったのだから仕方ない。選べなかったものはどうしようもない。私はよく『ニーバーの祈り』を思い出す。小さな趣味であるタロットのカードを広げるときにはいつも呪文のように唱えている。近頃はそらで言えるようになった。

 『神よ、願わくば私に変えることの出来ない物事を受け容れる落ち着きと、変えることの出来る物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ』

 この文句は、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5(屠殺場5号)」に出てくる一節で、主人公の部屋の壁に掛けられている。ヴォネガッドはこの後、登場人物である主人公のビリー・ピルグリムに向かって、地の文でこう付け足している。

『ビリー・ピルグリムが変えることの出来ないものの中には、過去と、現在と、そして未来がある』

洞察力に優れた作家によると、世の中なんてそんなもんである。私も半分はそれに賛成する、賛成せざるを得ない。この小説の中で、ビリーは、戦争の真っ只中に放り込まれたり、宇宙人に連れ去られたり、捕虜になって病棟に突っ込まれたりする。彼自身の意識は時間を飛び越えることが出来るようなのだが、物事を何一つ変えることの出来ないまま苦痛を経験する。もし人間に自由意志というものが存在せず、神が定めた通りの人生を生きるのなら、生きる意味などあるだろうか? という問いは何百と繰り返して問うてきたように思う。過去の出来事も、未来の出来事も、現在の出来事も変更不可能であると仮定するならば(多分この仮定は半分の真理だ)、私たち人間に変えられるものはいったい何であるか、という問いが浮上してくる。私の答えは、人間に自由意志が存在しないと分かっていながら、自由意志が存在するように振る舞うということである。自分には正しい意味で物事を選ぶことが出来ないと分かっていながら、物事を選び取ったのは自分であると信じることである。そう錯覚でもしないと、おそらく理屈屋の人間は生きることに意味を見出せずに苦痛だらけの人生に耐えることができない。何にも考えずにただ楽しく暮らすことの出来るなら、それは得がたい才能だが、私はそちらの方面の才能は徹底的なまでに皆無である。学生の頃、お前は何でも悪く考えすぎなんだ、と顔も覚えていない誰かに言われたことがあったが、考えることだけが唯一の取り柄なのだから仕方ない。ニーチェは神を殺し、神が存在しないのであれば罪や罰も存在しない、従って人間には神から与えられた人生というものは存在せず、意味もまた存在しないというような主張を立てた。人間が宗教の元に打ち立てようとした幸福や論理や人生の意味を全て白紙に戻したのである。この点に関して、眉をひそめるひともおられるかもしれないが、私は複雑な理由と単純な感情からニーチェに賛同する気持ちがあって、しかも本当に答えを出さないといけないのはこの問いの先にあるのだということも確信している。スローターハウスの小説で、人生について知る必要のあることはカラマーゾフの兄弟の中に書かれている、と言い放つローズウォーターという人物がいる。彼は続けて、でもそれだけじゃ足りないんだ、と言う。おそらくドストの大審問官の中で提示されているものは――無神論者であるイワンが問うたことは――ニーチェが問うたことと繋がっている。彼らは何千年と続いてきた既存の価値観を破壊することには成功したが、そこから先に存在している実際の人生に対して意味を与えるような解答を用意できた訳ではなかった。このニヒリズムの坑から出られる方法を私は見つけられず、もし小説を書き続けることで、自分の中に通常の自分では出せないようなこの問いの答えを無意識に炙り出すことができれば、この光ひとつ差さない場所から出ることが出来るかもしれないと考えている。

 

こんな話をするつもりではなかったので、現実の話に戻す。古物商申請の件だけど、今日ようやく申請書類を警察の方に受け取って頂けた。四十日後辺りに許可が下りるらしい。部屋も点検するそうなので、念入りに掃除しなくてはならない。実際の梱包材やら商品を送る手順にサイト構築等、いくらかやることがある。やることがあるのはいいことだ。余計なことを余り考えなくて済む。公募小説の進捗はほぼ八割のところまでは来た。この三日間、Twitter界隈で個人的に色々な動きがあり、何人かの方に励まして頂いたり、相談に乗って頂いたりした。そういう人達がいなかったら、精神的にやられてどうにもならなかったかもしれない。声を掛けてくれたその数人の方々には本当に感謝しています。ありがとう。

 

 kazuma

 

 

 余談:時々、洋楽のPVを観るのが好きです。二、三分の短い時間の中に言語でない物語を感じることが出来ます。お前はそういう柄ではないだろうと言われるかもしれませんが、こういう体験は書くときに役に立つし、そもそも書くことに役立てようと思ったらどんなものでも役に立つんですよね。案外、生きる意味や理由なんてその中に転がっているかもしれません。全てを小説や何か妙なものの為に捧げようとするのであれば。

 

夏の暑さは観念を溶かす

 暑い。頭の中でいくら御託を並べるのが得意でも、この暑さを殺せるのは25度のクーラーだけだ。心頭滅却すれば火もまた涼し、と禅宗ばりの観念論を唱えてみても暑いもんは暑い。グラスに氷を敷き詰めた一杯のアイスコーヒーの方が遙かに役に立つ。ひとはパンのみのために生くるにあらずとイエスは言ったが、どうしてもパンが必要な時というものがある。もといクーラーが必要なときというものがある。もし観念だけで生きていけたとしたら、とっくにそいつは悟りを開いてどこかの宗教の開祖になっているだろう。クーラー教なら私はどこまででもついて行く。但し、クールビズ28度なんていうヌルい教義はお断りだ。こんな文章を書いているのは暑さで頭が馬鹿になっているからかもしれない。夏の太陽の前では色んなことがどうでもよくなる。

 因みに今日は、久々に河川敷を走ろうと思い立って、半袖のランニングウェアを繁華街まで買いに行った。思い立ってはすぐ突っ込んでいって痛い目に遭うという人生を繰り返してきたので、学生の頃に比べて首を突っ込む具合は減ってきたのだけれど、今日は違った。頭の中のストッパーが緩くなった。夏のせいだ。

 速攻で目当てのアディダスの青いウェアを買うといそいそと帰宅。買ってきたばかりのウェアを着て、TSUTAYAで借りてきたDeftechの曲を詰めたipod(夏は何故か聴きたくなる)と二百円だけを持って家を出た。天気予報は無視したというか見ていない。雨は降っていなかったから。

 走り始めると天気の具合が微妙に悪いことに気付いた。曇天で向こうの方では雷が鳴り始めていたが、Deftechの曲を聴いて南国ハイになっていた私は、そのままマイペースに橋の下を三つくらい越していった。すれ違ったランナーは土手を降りていった。賢明な人間なら雨が降る前に濡れずに帰る。定番のランニングコースとなっている通りまで来ると、そこには日曜だというのにランナーはちらほらいるだけだった。その頃、空から雨が降り出した。最初は小雨で気にもならなかったが、さすがに途中で十六連符スタッカートで猛烈にアスファルトを叩く雨には閉口し、鉄橋の下でしばらく雨が収まるのを待った。五分ほど待つと、雨が小降りになったのでその間に駆けた。そこから先は雨宿りできる場所が殆ど無かったから、ペースを上げてコースから抜けていったが、急に走ったせいで少し膝を痛めた。おっさんみたいになったもんだなと思った。結局雨宿りする場所に辿り着くまでに雨はドヴォルザーク交響曲第九番ばりの演奏をはじめ、天の指揮者はタクトを乱振りするので、凡夫である私は泥の付いたランニングシューズで指揮者を称えるように地面を叩きながら、再び錆び付いた鉄橋の下でぼんやり空を見上げて立っていた。音楽を聴きながら走っていると何にも考えなくて良いのだが、イヤホンを外し、雨の音を聞きながら黙って動かずにいると、そういえば文藝賞はどうなったろう、という問いがぼんやり鬼火のように浮かんできては消えた。それから橋の外へ出たくなって、何もかも諦めたように歩いた。途中で自販機があったからポカリスエットを買った。雨でびしゃ濡れになったまま飲んだ、あの青いラベルの透明な液体はこの世の飲み物とは思えないほど旨かった。気が付くと雨が上がっていた。二十五回目の夏が来た。

 

ノンフィクション小説を書く気はなかったけれど、図らずしてそんな文章になった。職業(?)病だろうか。ほんとに職業になってくれればいいんだけれど。

 

人事尽くして天命を待つ。

 

Do my best and leave the rest to Providence.

 

kazuma

 

自由人一ヶ月目

 仕事を辞めてから一ヶ月が経った。そろそろここらで近況報告でもしておこうと思い立ったので書く。
 私は割と元気にやっています、と書くと、病棟から手紙を出す少女が書くような文面を思わせるので気が引けるが、それなりに平穏な日々を送っているので、気持ちとしてはその通りだ。辞めて二週間が経った頃、足元が落ち着かなくてそわそわするというようなエントリを書いたが、今では大分収まって、少しずつ生活にリズムが戻ってきたように思う。言い換えれば、落ち着いてきたということだ。辞めた直後は、一日中本を読んだり、小説を書いたり、映画を見たり、結構好き勝手なことをやった。前の職場の人と食事をしたり呑んだりして、思わぬところで珍しい古本を譲って頂くこともあった(辞める前に古本屋をやることは言っていた)。今も大抵好きなことをやっているが、小説を書き、読む、ということと、古本屋の仕事の準備だけは、欠かさないようにしている。これがいずれ生業になってくれるだろうということをいつも信じて日々を送っている。もしこれらが生業にならなかったら、自分はどうにもならないだろう、とも思う。不確かな道の上を歩いているのには違いないが、決まったレールの上に乗せられて特急列車で会社行きなんて道は望まなかったし、その道は既に断たれてもいるから、半分の恐怖と半分の愉快をやじろべえみたいに抱えて、自分の線路の上をちょっとずつ歩いている。後悔はしていない。特急列車に乗っていたら、いずれどこかのタイミングで窓から放り出されていただろう。降りた場所が自分の行きたい方向でもなく、重たい荷物みたいに捨てられるだけなら、そうならない内に列車から降りて、自分の決めた砂漠みたいな方角に向かって、ひとりでてくてく歩いて行く方が良い。その内、オアシスでも見つけるかもしれない。

 小説の進捗は、約七万字で原稿用紙換算一九八枚になった。これは群像応募用で、残り五〇ページを七月中に仕上げてしまおうと思っている。規定は二五〇枚以内だから、そろそろ話に纏まりを付けなくてはならないが、いまだに話の風呂敷を広げているから頭が痛い。本当にきついところは、広げるところではなく最後に話を包み上げるところだ、ということは、ものを書いたことのある人間なら誰しも分かることだと思う。完全に近い未完の原稿よりも、不完全でも校了まで辿り着いた原稿の方が価値がある。小説というものが人間によって生み落とされたものであるならば、その赤子である物語は、結局のところそれを書いた人間と似た性質を帯びているはずだというのが私の持論で、人間がいずれ終わりである死を迎えるのなら、小説も物語の輪の中で一度終わりを迎えなくてはならない。もし不老不死の人間がいたとしたら、永遠に話の風呂敷を広げて、終わりを迎えることのない小説を書いて、完璧であることを目指していてもいいけれど、私たちには、限られた命の分の時間しか与えられていないし、文字を書いていられる自分というものは、いつまでも存続するものではないある意味貴重なものだから、それを武器として戦おうとするのなら、限られた期間で書き上げるまでやるしか道はないのだ。

 古本屋の方は、古物商申請に必要な書類を集めながら、サイトをちょこちょこ構築している。一応、おそるおそる独自ドメインを取ったり、商品画像を上げて短文を書いたり、自作でロゴを作ったりと、こちらの方は、まあのんびりやっている。必要書類が色々と多くて、本籍地でないと取り寄せられない書類だったり、法務局で手続きを取らないといけないものがあって、時間がかかる。郵送請求はしたが、全て揃うのは一週間後くらいだろう。そこでようやく警察署に古物商の申請が出来る。もし待って下さっている方がおられたら、まだ開店まで漕ぎ着けられなくて申し訳ないのですが、またkazumaが何かやっとるな、くらいに思って頂けると有り難いです。極度のマイペース症候群なのは全く変わっておりません。どれくらいマイペースかというと、そこら辺を歩いているダンゴムシレベルなので、時々意味も無く丸まったりしながら、地べたを這いずり回って生きています。でも、週五で出勤していた日々に比べて、いまのお前の日々は充実していないだろう? と訊かれたら、きっぱりノーと答えます。
 ホールデン・コールフィールドに共感を覚えるような人間だったら、彼と友達になりたいと思うような人間だったら、きっといまの世の中のレールの上を渡っていかないと思うのです。私は彼と友達になりたかったから。彼が私のことをインチキ野郎と呼んだとしても。

 

以上、自由人一ヶ月目の戯れ言でした。

 

(了)

 

kazuma

 

余談:リアム・ギャラガーの「Wall of glass」が格好良すぎて、つまらない私の日々などぶっ飛びそうです。ずっと聴いています。

 

 

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