虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

活動予定

 こんばんは、kazumaです。今日は、近況と今後の活動予定についてお話ししておきます(何だかバンドマンみたいだ笑)。

 その前にひとつお詫びを。前回の記事は、思っていたことをそのまま文章で書き殴りました。私には自分の中に溜まったものを言葉にして吐き出すことが必要なときがあります。ごく自然なことなのですが、不用意にご心配をお掛けすることがあり、またブログの更新を待ってくださっていた方もおられますので、そろそろ落ち着いてオンラインの活動を再開していこうかと。

 いつも辛うじて生き延びている感覚ですが、とりあえずブログの文章が書けるくらいに戻ってきました。生きてますので笑 ご安心ください。

 近況報告といいますか、この空白の一ヶ月間についてはとくにお話出来ることはありません。ただ精神的に非常に不安定な状態でいました。自分が一番好きなことさえ取り組める環境にはいませんでした。仕事に行って帰ってきて、それだけでも割と一杯一杯でした。原稿も手に付かない日が何日もありました。文字通り、擦り切れていました。哀しいこともありました。平気ではいられませんでした。ただそれは、ここに書くことではないので。

 この夏は空白ではありませんでしたが、通り抜けた後には全てが空白になってしまった、とだけ云っておきます。ひとの人生は紙を一枚返せば、真っ白になってしまうような、微妙なもので。表の面にいくら情熱的にものを書いていたとしても、突然、どうしようもない力でひっくり返されてしまう。多分、ひとりで夢を見過ぎたのだと思います。それはとても自分に見合ったものではありませんでした。ひっくり返ってしまった白紙をぼんやりと見つめていました。それにも似た、河川敷の入道雲の白さが、いまも両の目に焼け付いています。

 かつても、いまも、これからも、ノートとペンだけを抱えて、ひとりで歩いて行くのだろう、と云うことだけは、はっきり分かった夏でした。それだけ分かればもう十分です。他に何にも要りません。唯一の成長があるとすれば、そこに気が付いたことです。 

 ひとは自分に見合った分だけを受け取るように出来ているのかもしれません。一生懸命手は伸ばしたつもりでしたが、どうしたって届かないものはあります。片方を諦めることは、もう一方を手に入れることです。

 新潮の結果は落選でした。出す前から分かっていた気がします。もう一度腰を据えて、納得がいくまで戦います。群像に間に合うか、正直かなり時間的な厳しさを感じるので、今回は見送ることも選択肢に入れて、時間的な制約に縛られず、作品と向き合うことだけを考えます。

 今後のオンラインの活動ですが、文学的なコンテンツについてはnoteにて徐々に発表していこうと思っています。夏が始まる前に書いた短編『サマー・バースデー』をnoteに無料で掲載しています。未読の方はよろしければ遊びに来てください。今後、カポーティの『ティファニーで朝食を』の作品読解はこちらにアップする予定です。

 

note.mu

 

 はてなブログは、よりプライベートな書き綴りになっていくかと思います。オンライン活動がより活発に出来るようになれば、はてなブログをProに変更することも検討中です。お付き合いいただける方は、これからもどうぞよろしく。

 最近は寝る前にポール・オースターの『ムーン・パレス』を読み始めました。文章の勉強のためだとか、これは読んでおかなければならないとか、そういうのは一切抜きで。ただ純粋な愉しみとして。ソファの上で胡座をかいて、何もかもを忘れて、読む。そういうことがめっきり少なくなったので。一日の内で、一番にこにこしているんだけど、部屋の中だから誰も気が付かない笑 そんなとき、忘れてしまった自分を取り戻しているような気がします。物語の繭に包まれるように。嫌なことは何も起こらない。そんな場所を現実の何処かに見つけたかった。見つけられないままだったけれど。いずれ。

 

 虚構の繭の中で揺られながら、いつまでも鮮やかな夢を見る。時計の針をねじ曲げて。

 

それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。

(『ムーン・パレス』ポール・オースター 柴田元幸訳)

 

kazuma

 

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道化師の文学

 kazumaです。戻ってきました。インターネットとテキストの海に。この夏は欠落したものを埋めるピースを探していました。結果的に掌に残ったのはただの言葉の砂塵と欠落を抱えたままの凡庸な存在でした。何十回やっても夏は掴まえられませんでした。人間よりもトラックに踏み潰されて死んだ蝉に親近感が湧きました。人間であることが向いていない人間ほど滑稽な存在はありません。私はどうも滑稽な種類の人間のようです。どんなに願っても真っ当になれる気がしません。ひとに後ろ指を指されて笑われながら生きていくようです。

 道化師は細い細い綱の上を、薄氷を踏むように毎日歩きます。ひとびとは何事もなく地に足を付けてコンクリートで舗装された道をしっかりと踏みしめて行きます。そうして時折、振り返ってはあんなにのろまな歩き方をする奴を見たことがない、さっさと綱から降りて普通に我々と同じように歩けばよいと云います。彼らは降りることが出来ない綱があるということが、分かりません。誰だって好き好んでそんな綱の上を歩いているわけではないのです。おかしくなりたくておかしくなる人間などいません。いたとしたらそれは漫才師か酔狂な人間です。おかしく見える人間は、一番真っ当であることを願った人間です。

 虚構の中に真実が在るのか、分かりません。ただ活字以外に救われたことってなかったような気がします。誰かとの思い出だとか、ひとやあるいはそうでないものを信じたりすることで、救われるようなことは稀です。皆、最後には時間の白波や、黒い鴉のくちばしがかっさらって、訳の分からないところへ消えていきます。そこへ落ちたら、もう誰も戻ってくることはありません。誰も彼もが我先にとひとを裏切って、また別の誰かと繋がろうとします。そんなことを繰り返してまで、何かを手に入れようとするのは馬鹿げているような気がします。生まれなければよかった、と思うことはしょっちゅうです。生まれる前までのIFを遡るのは更に滑稽です。自分はひととは全く異なる目的の為に生まれているような気がします。

 人並みの幸福さえ噛みしめることの出来ない人間はこの世にいます。そんな人間は虚構の神様だけを信じます。もし言葉の神様にさえ見放されたとしたら、もうその時が終わりでいいです。何の期待も後悔もありません。私は自分と同じ苦しみを背負った人に向かって書きます。それ以外に書く理由は見当たりません。作家になる目標だとか、生活のことだとか、ここまで来たら、どうでもいいことのように思えます。私はただ同じ哀しみを抱えて涙を流したひとの頬を言葉のハンカチで拭いてあげたかっただけです。昔の自分が出来なかったことを、何年も掛かってやろうとしているだけです。かつてそれを必要としていたときに、誰にもそうしてもらえなかったことを、やろうとしているだけです。他に信じているものは何もありません。幸福な人間に向かって書く物語はありません。彼らのための物語は世の中に腐るほど溢れています。不幸を背負わざるを得なかったひとに向かって、私は話をします。

 うまく生きることが出来なかった、不器用なひとと向かい合うのが、私の文学です。それが世の中や賞といったものに認められなかろうが、そのひとたちへ向かって書き続けるだけです。その為になら、泥臭く生き延びてもいいように思います。

 

kazuma

 

人間が偉大なる所以は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。

 

 「われは夙に知っていた、――いつか悪魔が来たって、わが片足をすくうであろうことを。いま悪魔はわれを地獄へと牽き行く。之を妨げて呉れ――。」

 

  『ツァラトストラかく語りき』フリードリヒ・ニーチェ

 

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夢と七夕

 お久しぶりです、kazumaです。潜ってました。文章の海に。

 7月6日まで原稿執筆の為に、ブログから席を外しておりましたが(Twitterでは度々出没が確認されていたようです笑)、短編の雛形が、ひとつ出来上がりました。ただ、書き終えたとは到底云えないので、脱稿はまだまだ先になりそうです。今月中には短編としての完成を見たいですが。一応、形にはなっていると思いますので、これで文学学校のクラスに提出して、合評会で反応を見ようと思っています。取り敢えずはこれで一段落して、引き続き、書き続けていこうかなと。

 文章を読みたいと云ってくださる方がTwitter上で何人かいらっしゃるので、その方々にもいつか読んで頂けるように、これからも書き続けていきます。ほんとうにいい意味でモチベーションになっています。また完成しましたら、ご希望の方にはご連絡を差し上げる予定です。『一馬書房』の方でも、何冊かお買い上げいただいた方に、オリジナル原稿を同封する企画をやろうかなと思っていますので、気になった方は時々チェックしてみてください(営業トーク)。

 さて、近況ですが、最近は目標のタイムリミットが確実に近付いてきていることを感じます。このブログに記していたように2019年3月31日までに作家になることが元々の目標でした。正直に云って、途方もなく遠い夢を掲げたものだなと思います。目の前に見えている山の麓まで辿り着けそうだと思って、歩き始めたら、一向に距離は縮まらず、片脚は既に底なし沼に足を取られているような。勿論、期限までに作家になることが全てではなくて、リミットに間に合わなくとも、腹くくって書き続けることには変わりないんですが。きっと、ひとが一生の内に、ほんとうに夢だけを追っていられる時間って、そんなに多くの時間が許されている訳ではないんですね。でも、いま追わなかったら絶対に後悔するってことだけは、分かります。いつも人生の大事な時に、間違いばかりを選んできたから。小説のことだけは、誰が何と云おうと、自分で選んでやるって、それだけを19の時に、病棟の中で思っていました。あの時にもし小説がなかったら、自分はもうここには居なかったように思います。一線を越えなくて済んだのは何故だったのか、いまも分かりませんが、まだ生かされているのは、きっとまだやってないことがあるよって、誰かに云われているような気がします。倒れていた自分にもう一度息を吹き込んでくれたのは小説の中の言葉でした。

 いまも作家になる夢を追っているのは、遠い昔の自分への約束と、それを守るための個人的な意地です。どれだけ現実に遠回りをすることになっても、ペン先に滲んだ青いインクが、淡く光る水銀灯のように歩く道を照らし、暗い夜道に迷わぬように、現れた言葉が、私の手を引いて、正しい階段のある場所へと導いてくれることを、信じます。

 苦しくとも純粋さを守りきったシーモア・グラスのように、生きれたら。

 今日は七夕でした。作家になりたいと云う夢は短冊に書くんじゃなくて、自分で勝手に追いかけます。ノートとペンと思い描いた虚構世界で。

 kazuma

 短冊:文学仲間と文学的パートナーが見つかりますように。(笑)

 おあとがよろしいようで。では、また。

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7月6日まで、短編小説の制作期間に入ります。

 今日は取り急ぎ、ご報告まで。

【お知らせ】

 7月6日まで、短編小説の制作に集中的に取り組む期間とします。文学学校の課題提出期限が差し迫っていて、ブログに手が入れられない状態が続いていまして。中々にハードな日々です。『ティファニーで朝食を 読解vol.2』を早いとこやりたいのですが、いまは短編を仕上げることを優先するしか手はなさそうで。一馬書房の更新も出来ないまま、仕事場でもイレギュラーなことがあったりと、かなり歯がゆいのですが、とにかく7月6日までは、作品を造り上げることだけを考えようと思います。終わったらこのブログで進捗をお伝えします。

 『ティファニーで朝食を』の読解記事は7日以降となりますので、申し訳ありませんが、のんびりお待ちいただけるとありがたいです汗(待ってくださっている方もいらっしゃったようなので)

 ツイートもしましたが、時々、息抜きにTwitter上には出没してます、見掛けたら遊んでやってください笑 7月6日に泣きを見るか、歓喜を見るかは原稿の進捗次第。

 では、小説の世界に沈んできます。力の限り。
 
 kazuma

 Limited Days: 278 Days

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T・カポーティ ティファニーで朝食を 読解vol.1

 以前の記事で、好きな文学作品の研究がしたい、と書いた。新年の目標にも掲げていた。ある人に教わったことだけれど、ブログに好きな作品についての文章を纏めると、作品の理解に役立つとアドバイスを貰っていた。作り手としての目線から見ることで、執筆にも活かせると。中々時間が取れず、ずっと後回しにしてきたのだが、そもそも作品を作る上での闇雲な方法論にも限界を感じていたこともあって、一から出直そうと、影響を受けた作品の読み直しをしていた。
 
 という訳で、作品読解を記事にしていこうと思う。第一回として選ぶなら、やはり最も好きな作品を取り上げるのがよい。一番好きな作品は、とうの昔に決まっている。T・カポーティの『ティファニーで朝食を』しかあり得ない。
 ミス・ホリデー・ゴライトリー、トラヴェリング。檸檬と石けんの香り。朝食用シリアル。ブラウンストーンのアパートメント。茶トラの海賊猫。作家志望の青年――、すぐに思い出すイメージは、そんなところだ。
 
 この本に出会ったのは、大学生の頃だった。キャンパスを歩くにもそぞろ歩きの初々しい季節に、街中の書店で買い求めた。当時は、カポーティの名前さえよく知らなかった。この作品を読む前に、川本三郎訳の『夜の樹』は既に読んでいたが、あまりに難解な短編集に感じて、一度読むのを止めて途中で放り投げたことがある。アンファンテリブル(仏:enfant terrible=恐るべき子ども。コクトーの同名小説が由来)の惹句に惹かれて、『夜の樹』を読み進めたが、理解が全く追い付かなかった。自分の中で、カポーティという作家には奇妙さ(Strange)を感じている。それは決して悪い意味ではなく、彼ひとりだけが持っている"unique"なものという意味で。何がユニークなのかと云えば、普通の感覚ならば絶対に引き出してこないような論理構造が彼の物語の中にはある、ということだ。特に『ミリアム』や『無頭の鷹』には、はっきりとそれが現れている。通常の、私たちが慣れ親しんだ物語の因果法則は全く当てにならない。誰が一読してミリアムの正体を見破り、ヴィンセント・ウォーターズの夢を解き明かすことが出来るだろう? たぶん、そんなことは誰にも出来っこない。カポーティは、読者の読み筋を辿るのではなく、自らの筋を辿るように要求する。奇妙さを際立たせているのは、その言葉選びのセンス、語感である。初めて『夜の樹』を読み終えた頃、作品としての理解が追い付かなかったにも関わらず、はっきりと、この物語は美しいと感じてしまった。ある作品が美しいことを、他の文章によって示すことは原理的にできないと思うのだけれど、敢えて言葉にするとすれば、それは選ばれている言葉そのもの、事物そのものが美しい、としか云いようがない。カポーティの小説は物語の筋だけを見れば、不可解で、奇妙で、入り組んでいる。けれども、そこに洗練された感覚が、研ぎ澄まされた神経が捉えたものは、一粒のダイヤモンドの輝きよりも美しく、透き通っていて、誰にも触れることを許さない。私たち読み手は、ただ物語を通してのみ、その輝きを見つめることが出来る。土台は非常に不安定で、ストーリーは常に現実から乖離することを望んでいるかのように思えるが、そこからまざまざと立ち現れてくるものは、現実よりも遙かに生々しく、リアルで、虚構と現実の境界線を、いとも簡単に消し去ってしまう。カポーティの物語は、それがどんなものであれ、夢を見ている気分にさせないものはない。悪夢でも、幸福に包まれた夢でも。現実に飽きた私たちにはうってつけの物語だ。
 
 『ティファニーで朝食を』はカポーティが見せる数ある夢の中でも、とりわけ幸福な夢だ。尤も、切ない哀しみに沈んだ幸福、という意味で。ひとの出会いと別れを描いたもので、これほど完成された物語は他にないと思う。村上訳のあとがきでノーマン・メイラーのコメントに触れられていたが、彼の言葉をここに引用しておこう。
 
カポーティは、私と同世代の作家の中では、もっとも完璧に近い作家である。ひとつひとつの言葉を選び、リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる。『ティファニーで朝食を』の中でこれは換えた方がいいと思うような言葉は二つもなかった。この作品はちょっとした古典として残るだろう」――ノーマン・メイラー (訳者あとがきより)
 
 今回取り上げるテキストとしては、新潮社から出ている村上春樹訳を底本とし、必要とあれば、ペンギンクラシックスから出ている原文を当たる。海外作品を読み解く時に、原文を当たることが必要というのは尤もな話だけれど、私は語学に堪能な訳ではなく、英文学の講義を潜りで聴いていた程度の知識で、殆ど無いようなものである。それに私が出会ったのは村上訳の『ティファニーで朝食を』であり、せっかく翻訳大国に生まれたのだから、それにちっとばかし甘えたって罰は当たらない(はずだ)。私は原典原理主義者ではなく、ただの一介の翻訳文学好きでしかない。トルーマン・カポーティ氏には僅かに目を瞑っていて貰おう。きっと片目でウィンクをして許してくれることだろう。
 
 読解がどのようなものになるか、いまのところは分からないが、順を追って、分かったことを記事にしていきたい。もしこのブログを読んでくださっている方で、私の解釈はこうだよ、というものがあればコメント欄に書いていただければ、嬉しく思います。何となくカポーティに対する印象と、本編に入る前のガイダンスみたいな感じになってしまったけれど、今日はここまで。
 
 kazuma
 
 近況ひとこと:最近は、新しい小説の制作に取り組んでいます。三十枚を目処に、きっちりと仕上がった短編小説を作ることを目指したいなと。子どもだった頃の純粋な思い出をテーマに、大人になり切れなかった人間の苦しみ、孤独を、作品の中で描くことが出来ればと思っています。
 

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