虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

今後のブループリント、青写真。

こんばんは、今日は備忘録というか考えを纏める為にブログ記事を書いています。今後の執筆計画というかブループリントのようなもの。青写真。
 
昨日で、一度群像に提出した物語にケリを付けました。信頼できるふたりの方だけに完成した小説の原稿をお渡しし、おひとりの方から読み終えた感想を頂きました。その内容を読んで、自分でも理由に納得のいく物語の欠点というかクラックのようなものが見つかり、それを内包した上で出来た物語だったのだなあと少ししみじみと思っています。自分ひとりでは訳が分かっていなかったので、やはり小説というものは他の人に読まれてこそ客観性を得て、息を吹き込まれるのだと感じることになりました。
 
欠点と思われたのは、書き上げるまでの一年の間に書き手である私の身の上にも様々なことが起こり、物語の中盤を描いている中で主張していたことと、終盤で主張することになる答えらしきものの二つを比べて、小説の中で云いたいことの結論というものが、物語が進むに連れ変わっているということです。ただ、そのズレのようなクラックを含むことによって、物語の人物も成長を遂げているので、必ずしもこれはなくしてしまって良いものではない、という意見を持ちました。
 
実は物語の途中で、ここで物語を切った方がよいと感じる文節が、ただひとつだけ存在していたのですが、群像に出しているものは、そこで終わりにして提出しています。ですが、書き手である私は、その先にもまだ物語を続けたいと感じていたので、最後まで物語を見届ける為に筆を走らせることにしたのです。結果的に二つの終わり方が存在する物語となりましたが、これで良かったのだと随分納得をしています。
 
何故ならば、この物語は二つの意識を持った人間が登場する物語なので、終わり方が二つあるのはむしろ自然であるようにも思います。後付けの解釈のようにも思えますが、いま思うと、この解釈が一番明快に思えます。ともかく、物語が納得のいく出来になったことは疑いようがありません。あとは、新人賞の大海の中へと送り届けるだけです。400枚超の賞は、エンタメであっても中々見つからないので、フルバージョンの小説の応募自体は再来年に持ち越そうかと思案しています。群像の結果は早くても一次選考の発表が五月号の四月第一週での発売のはずでしたから、フル版の小説を応募できるところは、六月以降のものでなければなりません。
 
実はある賞に応募することをかつての知人に勧められていたのですが、何となくそれが意味のあることなのではないか、と迷信深い私のことですから信じたくなっています。ただその場合、再来年までこの作品の賞への応募は見送らなければなりません。これについては考えるところもあるのですが、最後の弾として、いつでも撃てるように置いておくのもありかなと思っています。
 
このブログのプロフィール欄にもそっと掲げていることですが、2019年3月31日迄に小説家になることを私は目指しています。事実上、それが間に合うためには三回しかチャンスがありません。今年の群像への一発目の弾は撃ち終わったので、次は来年三月末〆の新潮新人文学賞に照準を合わせようと思っています。12月の一週目を構想に充てて、二週目から執筆をはじめ、今度は100枚程度の中編に挑戦したいと思っています。今回の作品では、私の心境の変化によって小説の進行や内容自体が変わってしまう弱点があったので、完全に書き手と小説世界をきっちり分けたものを描きたいという想いがあります。勿論、それでも書き手のことは知らず知らずの内に滲み出るものだと思うので、それは自然な発露に任せて、虚構の人物達をより尊重した世界観の物語を構築出来ればと思っています。今回の小説ではある種、私小説的な部分を含んでいるところもありましたので、より虚構を軸に置いたものを造り上げたいなと始める前の段階では、ぼんやりとそんな風に思っております。
 
十二月の一週目まで期間を空けてあるのは、KDPの第二作を発表しようかと現在思案しているところで、具体的には文藝に落ちた作品のリライトをして、納得のいくものに仕上がれば、十二月辺りには出版したいと思っています。前回出したのも確かこの冬の時期だったと記憶していますが、年に一作でも少しずつKDP出版していければ、いつか塵は積もれば何とやらで、私自身の色のトーンが出た物語が並んでいってくれるのではと思いますし、前作の「私はあなたを探し続ける」を読んで下さったという方が意外とおられることに気が付いたので、今年も出したいなと思っています。なので、今週は旧作のリライトに充てるつもりです。ブログで宣言しておけば、やるだろうなという魂胆で書いてます笑 KDP出版のやり方を忘れてしまったので、出版マニュアルか何かを買おうかなと思っています。前回はほぼネットの情報とお知り合いの方の助言だけで作ったので、試行錯誤感が半端なかったです汗 もう少し良い感じの表紙を作りたい(切実)
 
後は、私の身の上話というか、今後の身の振り方なのですが、結構迷っています。オンライン古書店『一馬書房』を開店できたことは、今年のビッグニュースのひとつでしたが、やはり古本だけで食べて行くには相当の覚悟が要るということを実感した次第です。ただ古本屋を始めたこと自体は私にとって滅茶苦茶プラスに働いているので、儲かる儲からないではなく、個人の活動の一環としても是非続けていく所存です。ただ、これを本職に出来るのか、それとも別の食い扶持を探すのかということは、別個の問題なので、良い方法がないかなと考えています。やはり本に関わる仕事をしたいという気持ちが強く、新刊書店では上手くいかなかった点もかつてあったのですけれども、それでもやはり本に関わるものでなければ興味を持てないということは、別の仕事をした時に気が付いていますので、何処かの古本屋さんで、ある種の弟子奉公といいますか、アルバイトで経験を積みたいという気持ちが強いです。大阪の古本屋でのアルバイトを希望しておりますので、もし何か情報を知っている方がいらっしゃれば、教えて下されば幸いです。念の為。m(_ _)m
 
来年の三月までには身の振り方についても何かしらの決着を付けたいと思っています。新潮新人賞への応募含め。
 
いまはともかく出来ることをひとつひとつ詰めていこうと思います。人生の時間のパズルを埋めていけば、どこかで欠けていたピースを見つけられる、見つけざるを得なくなる瞬間が訪れることを信じています。そこまで来れば、物事は歯車にかちっと嵌められたように動き出すような気がしています。予感ですが。
 
では、また。
 
kazuma
 

f:id:kazumanovel:20171124204129j:plain

(タロット 大アルカナ 番号Ⅹ 運命の輪)



言葉の海の底で

 更新が遅くなりました、kazumaです。ここ一週間というもの、書き上げた小説の推敲・修正をしておりました。群像に途中で切って提出した物語の続きです。仕上がってみれば、物語は途中で切ってよいものではなくて、ちゃんと最後まで描ききらなくてはならないだけの理由が、その続きの文字の中に現れてきました。私はそれを蝋燭の明かりの影を見つめるように、見ていたような心地がします。一度消してしまった燭台の火先にもう一度静かに青い火を灯し、白く立ち昇る一条の煙をそこに認めるように。その煙にはきっと意味があるのだと思います。少なくとも私にとっては意味あるものでした。
 
 はじめは、ただ一滴の水、泥濘に出来た水溜まりほどの言葉の羅列は、段々と渦のように重なって廻り、池となり、湖となり、最後には溢れ出すような河となって、ひとつの小説になったように思えます。その文字の渦に、流されたり、沈んだり、時には溺れさえしながら、藁にも縋るような思いでペンとノートだけを握って書き上げました。書き始めたのは、一年前の十月でした。小説が完成に至るまで一年以上の月日が流れました。この一年の間に私の身辺には色々と変化が起こりましたが、結局手元に残ったのは、この言葉達以外にはなかったように思います。小説の中で、いまの自分に云えること、誰にも云わずに籠の中で鳥を飼うように温めてきたことは、いくらかは云えたのだと思います。小説を書き上げると、私は物語に対して、いつも家から飛び立つ雛鳥のイメージを思い浮かべます。暖かな巣の中から出て、時には隣にいる鳥と取っ組み合いをしながら、皆やがては浜辺に足を着け、海の向こうへと飛び去っていく、その海鳥の後ろ姿を見つめているような。物語を振り返って、通しで読み直していると、その鳥がどのように育ち、どんな運命の風に晒されて、飛んでいったかがよく分かります。その鳥はある意味では私の人生の投影であり似姿なのだと思います。時々、小説を書いていると、私はその鳥に向かって――鏡の向こう側にいる自分の影に向かって――語りかけているのではないか、と思うことがあります。そうすることによって、その揺りかごの中にいた雛鳥を育て、一人前にして、それを生み出した者よりも遠くへ行けるようにと願って、書き続けていたように思います。現実の私という人間は、遠くへ行くのは叶わないことが山のようにしてあるから、せめて虚構の鏡の向こう側にいる鳥だけは、私という存在なんかよりも、ずっとずっと遠くまで行って、もう帰ってこなくても良くなるくらい、水平線の向こう側まで、行ってくれと、そういう思いで私はこの一年以上に渡る歳月を、その鳥と一緒に過ごしました。はじめは小さな可愛らしい鳥が、いつしか親のことなんて忘れて、すくすくと育ち、最後には力強く青い空へ羽ばたいてくれるその瞬間を待ち続けていました。まるで全てのものが復活する審判の日に響き渡るラッパの音を待ち侘びるような気持ちで。きっと私という人間の姿形が燃え尽きた煙草の火のように消えゆくことがあったとしても、その灰皿の底に溜まったいくつもの言葉の灰が、不可思議な魔術の小径を通り抜けて蘇り、再び鳥の姿を形取るように、私の代わりにもう少しの間だけ生き続けてくれるような思いがします。その言葉の鳥達だけが残ってくれれば、もうそれだけで十分なんじゃないかと、その一羽だけでも伝書鳩のように誰かの胸に言葉を届けてくれたなら、それ以上望めることなんてないのではないかと思います。
 
kazuma
 

f:id:kazumanovel:20171123153909j:plain

古本DAYS

お久しぶりですね、約10日ぶりの投稿となります。最近は一馬書房として動くことが多く、こちらのブログを更新できないままでしたが、時折更新したりはするので、お暇がある時にでも見てやってください。一応、息はしております笑
 
十月一日に古書店『一馬書房』をオープンしてからというもの、結構家に籠もりがちな生活が続いておりました。あまり人間的な生活を送っているとはいえませんね汗 朝起きたら、本を読んだり、古本屋のサイトに商品を一冊アップしたり、午後は小説を書いたりのそんな生活を送っていました。五月までアルバイトしていた時は、嫌でも外に出てひとと会い、ぶつかったりしながら生活を送っているという感じでした。それはそれで、きつい生活を送っているという感覚がありましたが、いまの缶詰のような日々も精神的に辛いものがあって、やっぱり人間は外に出て太陽の光を仰いでひとと喋ったり、仕事したりすることがどこかしら必要なのだと思います。ミステリの安楽椅子探偵のように部屋にいながらにして問題を全てを解決してしまう、そんな人間はフィクションの中にしかいないのだということを痛いほど分かったような気がします。本当は自分の部屋の中で全てが事足りてしまえば良いのですけれど、きっとそういう風には人間は造られていないのでしょうね。
 
十一月にもなりましたが、相変わらずの古本漬けの日々を送っています。古本DAYSです。人間的に成長した気は全くしないのですが、文章だけは少し枝葉が伸びて、爪の伸び具合くらいには成長しているのではないかという思いはあります。ただ文章は賞を獲るなどして結果に表れたりしないので、そこが辛いところではあります。原稿用紙に何百枚とものを書こうと、それは眼に見える数値とは決してならず、ただそこには物語があるだけです。それが誰かに届けば良いですがいまのところその兆しはありません。応募した群像の発表は来年五月に選考結果発表ですが、正直に云うとそこに辿り着くまで何にも手応えを得るチャンスもないというのは苦しく感じられるというのが本音です。
 
時々、自分は誰に向かって小説を書いているのだろう、ということをよく思います。一番最初に書き始めた頃は、ほぼ99.9%自分の為でした。こんなことを云うと変な奴だと思われるかもしれませんが、私は結構自分が書いた物語を読み直したりするのは好きです。但し、その時自分が取り組んでいる作品に限りますけれども。前回のものといまのものを比べると毎回眼も当てられないところがあって、その度に前の作品を燃やしたくなりますが、でもその時書いていた自分はいいものが書けたと確かに思っているんですよね。常に前回のものを燃やしたくなるくらいは成長していたい、そうでなくてはプロまで届かないような気がします。いま書いているものも、自分ではこれが決定稿だと思っていても、ずっと先の未来ではそうは思っていないかもしれない。そう思うと、私は言葉のひとりリレーをやっているような気がします。目の前には、未来の自分が白線の上で待っていて、彼に向かって小説のバトンを渡していくような。あと何周すればゴールテープが切れるだろう、と。私は未来の自分のために小説を書いているのかもしれません。そのバトンがいつか私以外の誰かのもとまで届く日が来ればいいのですけれど。その日を迎えることをいつも待ち侘びながら生きています。
 
余談ですが、今日のブログは古本屋で買ったBill Evansのアルバムを聴きながら書きました。他の音楽とかだと駄目ですけれども、ジャズだとブログの記事くらいは書けるのかも。今まで聴いたこともなかったビル・エヴァンズのアルバムを偶々古本屋で見つけて、村上春樹の『ポートレイト・イン・ジャズ』を読んだときに気になっていたので、初めて手を出してみました。これ何時間でも聴けますね笑 タイトルは『escape』です。現実逃避したいからタイトルで選びました笑 おすすめの一曲を載っけときます。では。
 
kazuma
 

第61回、群像新人文学賞に応募しました。

今日は強い雨風が吹いています。郵便局に行ってきました。新人賞の応募原稿を抱えて。

 

昨年の十月から書き続けていたものなのですけれど、仕事のことがあったり、辞めた後は古本屋のことや体調が思わしくない日々が続いていて、結局丸一年も掛かってしまいました。実は物語そのものは完全な完成にまでは至っておらず、それでも目標としていた群像新人文学賞の〆切りが近付いてきていた為、一旦筆を置いてもおかしくないところで、物語を切り、応募してみることにしました。応募原稿は原稿用紙換算枚数232枚で、250枚の規定内に収めましたが、実際の原稿は360枚強まで来ており、400枚程度の作品になりそうです。年内までにそれを仕上げて、形にした上で、次にも勝負を掛けていかなくてはなりません。翌年三月〆の新潮に意地でも間に合わせたいですが、日程のことと、それ以上に精神的に苦しい日々が続いていて、年を明けるどころか、年内までの自分さえ上手く想像することが厳しくなっています。一歩進めば壁が立ちはだかり、後ろに退けば落とし穴に落ち、右を見ても左を見てもどこにも希望が見当たらない、そういう日々の中を綱渡りでもするように、生きてきた気がします。これが自分の人生なのかと眼を背けてしまいたくなることばかりで、眼を閉じてもその現実の景色は消えることなく在り続けます。言葉を読んで物語の中に沈んでいける時は、そんな景色でさえも泡の淀みのように消えていきますが、自分の抱えた病の為か、それとも他の何かの為なのか、いまでは物語を読んだり書いたりする為に集中すること、それ自体が難しいことのように思えます。けれども、私が本当に生きていられるのは物語を通してのことなので、ペンとノートを握っていられる間は、文章を打ち込んでいられる間は、誰に何と云われようと書き続けるしかないのだと思っています。それを手放してしまったら、その時が終わりなのだと。他のものは全て何処かに捨ててきたような気がします。幼い頃から、私が何かをしようとするといつも決まって邪魔をするような人が私の周りにはよくいました。彼らは後ろ指を差して人間を嗤い、ひとが何年も掛けて積み上げてきたものを無駄だと否定し、何か別のものを見つけるとそれは駄目だと批判し、何をやっても、どんなことをしようと、ひとが必死に組み上げた言葉の積木を粉々に砕き、燃やし、ゴミ箱にぶち込んで、袋にまとめてこんな汚いものは要らないと云って、私の全てであるその木片を棄てさせようとします。私はいつもそのぼろぼろにされた言葉の積木が残された後に、木屑のような言葉を集めて、またもう一度それでお城を造ろうとします。でも、そんなもので立派な言葉の王国が造れるものでしょうか。自分を縛る足枷が何にも無かったら、誰にも邪魔されないで小説を書いていられたら、私はそれで機嫌良くいつまでも言葉の世界で遊んでいられるのに、いつだってどんなお城も破壊されてしまうのが世の常です。他に望んでいるものなんて、何にも無いのに。それひとつさえ叶えば、ほかのものなんて、何にも必要はないのに、どうして自分にはそれさえも叶わないのだろうか、普通の人生を諦めて滅茶苦茶な人生を送るだけでは足りないのか、いつもそんなことを胸の奥に仕舞って誰にも云わないままで、物語にだけほんとうのことを話します。私は潰れた人生の破片を拾ってそれで小説のお城を造ります。見た目は不様で、窓も壁もなく、それはお城と云うよりもプレハブ小屋にさえ見えないかも知れません。でも私に残された材料は、他のひとたちが持っているほど沢山もなく綺麗でもなく彼らの云うように汚くて醜いものばかりだったから、それで歪な形の言葉を生み出すしかなかった。ほかのものは皆全て、人生に棄てさせられたか、自分で棄てたかどちらかのもの。たとえ私の手元に残っているのが一本の枝木しかなかったとしても、私はその枝先を握って砂の上に文字を書き、物語を書きます。燃やされた言葉の灰で、みすぼらしいお城の輪郭を描き、粉々に砕かれ潰された人生の木屑を集めて、壁にもならない壁を造り、隣にはしっかりとした造りの豪邸が建っているのを見上げながら、私は隠れることも出来ないその歪んだ言葉の骸達を、お城だと信じてそこに棲みます。ひとびとはあいつは馬鹿だ、気が狂っていると云われるにしても、私にはそれ以外の人生を望むべくもなかった。これから先に待ち受けている――もう既に現れているその未来は、きっとそんなものだろうと思います。

 

原稿を郵便局に出した後、雨の街を歩きました。いくつもの水溜まりを踏ん付けて、靴の底には水が溢れ、隣の車線を白いバンが駆け抜けて、水飛沫が半身に掛かりました。風は強くて時折傘を両手で持たなくてはなりませんでした。それでも、家に戻るその短い道のりを何故か忘れることができずに、俯き加減だった顔をほんの少しだけ上げて、何でもないただの路地を歩いたことを、帰ってからも馬鹿みたいに思い出していました。結果が落ちたとしても通ったとしても、その何の変哲もないアスファルトの色を、私はきっと思い出すだろうと思います。

 

kazuma

『一馬書房』公式Twitterアカウントを立ち上げました

 今日は『一馬書房』に関するご報告をひとつ。それから私個人の今後の動向についてお伝えします。

 まず表題の件ですが、この度『一馬書房』公式Twitterアカウントを立ち上げることとなりました!

f:id:kazumanovel:20171019183912j:plain

 アカウント名は、【一馬書房@kazumashobo】となります。

 

 見出し表記、久々に使いました笑 こちらの公式アカウントでは、主に新商品の入荷情報や、一馬書房の日々の近況ツイート、Blogの更新通知などを主に行います。もしフォローしてもいいよという親切な方がいらっしゃいましたら、そうしてくださると私としては嬉しい限りです。フォローを頂ければ、基本的にフォローをお返しします。またこちらからフォローさせて頂く場合もありますので、気に入って下さった方は、どうぞ宜しくお願いします。これでやっと公私混同ツイートを免れられる笑

 一応このブログは一馬書房のアンオフィシャルサイトという位置付けです。私の中では現実を軸としたものが、古書店『一馬書房』での活動、虚構を軸としたものが小説執筆及び、当サイト運営を含めたオンライン上のkazumaとしての活動と考えています。

  •  公・現実・オフィシャル(Public):古書店『一馬書房』店主 KDP出版著者 
  •  私・虚構・プライベート(Private):小説執筆 『虚構世界で朝食を』 

 公(Public)での活動は主に、漢字表記としての本名及び筆名。私(Private)での活動は主に英字表記としてのkazumaとして活動を行います。両者ともにひとりの人間であることには間違いがないのですが、この前、公私両方を知る知人に違う人間が書いているように思える、という主旨のことを云われました。多分、文章を書く『私』と、そうでない『私』は、同じ”I”(アイ)でも別人のような気がするのは書き手である自分も思うところがあります。書き手ではなく生身の人間としての自分は結構、支離滅裂なところだったり、ちゃらんぽらんなところがあり笑 ただ、文章を書いているときの自分は、そういったものから離れられるように感じることがあるので、そのことでよく救われています。書いている間だけは、まだまだ自分も捨てたもんじゃないな、と自惚れですが、思っていられるのです。私から書くことを奪ったら、人生は何にも残ってはいません。百パーセント、零になるだろうと思います。いつか小説家としての活動を公に加える日が来ることを私は信じています。

 

 私個人の今後の動向についてですが、いまは年内に新人賞応募作品を提出すると決めています。文藝賞においては惨敗に終わり、華々しく散ったので、改稿を加えたのち、KDP出版第二作として発表したいと考えています。おそらく新人賞提出後ですので、年末になるかと。あと、年内に東京に一度行けたらなあという思いがありますが、この件に関してはまたいつか。

 

 それでは、今後とも古書店『一馬書房』と『虚構世界で朝食を』を宜しくお願いします(ぺこり)。

 

 最後に、最近お気に入りの萩原朔太郎の詩を。

 

 座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼をひろげる
 蝶のちひさな 醜い顔とその長い触手と
 紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。
 わたしは白い寝床のなかで眼をさましてゐる。
 しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする
 夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語
 水のほとりにしづみゆく落日と
 しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

 夢をみながら わたしは幼な児のやうに泣いていた
 たよりのない幼な児の魂が
 空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのように泣いてゐた。
 もつともせつない幼な児の感情が
 とほい水辺のうすらあかりを恋するやうに思はれた
 ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

 あたらしい座敷のなかで 蝶が翼をひろげてゐる
 白い あつぼつたい 紙のやうな翼をふるはしてゐる
 
 ――引用・『蝶を夢む』萩原朔太郎

 パブリックドメインの為、全文掲載。

 

f:id:kazumanovel:20171019184632j:plain

 

 

 kazuma