虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

スタート地点のスタート地点

 この一ヶ月、頭の中が破裂しそうな時が沢山あった。何度か病院にも行った。医者から薬をもらって飲んだ。治らないことは分かっている。道ばたで偶然すれ違った、かつてのクラスメイトに非道いことを言われたような気もする。多分、どうでもいいことだ。仕事を辞めてからは、あまりまともに他人と喋っていない。必要最小限度の会話。機械のように喋るイエスとノー。今まで、自分をぎりぎりまともな方に引っ張っていてくれたのは、かつての職場の人達との会話があったからかもしれない。ひとりになると頭の中のモノローグが止まらなくなったりすることがあって、似たような感覚は、昔、自分が大学生だった頃に狭っ苦しいワンルーム・アパートに住んでいた時にも感じていた。あの時はニーチェを必要な食べ物か何かのように貪るように読んで、最終的には彼の最期と同じく気が狂って家を飛び出した。もし病がなかったらと思うことはあるが、「IF」の話が出来るのは虚構の中だけだ。いま公募向けに書いている小説は、かつて間違った選択をした過去の自分に対して、正しいものを選ぶように、未来である自分から語りかけようとしているように感じる。過去の自分がいま書いた物を読むようなことがあれば、彼がこの未来を選ばないような小説を書きたいと思っている。でも、本当のところは分からない。小説が出来上がったとしても、その小説が存在しなかったとしても、結局私は――私たちは――何十万遍も同じことを繰り返し続ける気がする。生きる答えが書かれている紙が存在するとしたらそれに全財産を擲っても良い。もっとも、私の財産など高が知れているので、一文字も読ませてはくれないだろう。神は基本的には意地が悪い。答えなんか教えることもないまま、何処かへ行ってしまったみたいだ。

 私の半分は既に狂い切っている。他人が居る場所で誰かと話をしたり、公共の場に出るような時は、残り半分の造られた仮面を前に一生懸命持ってきて、狂った部分を隠そうとする。最初の数十分は何とか上手くいく。二、三日ならぎりぎり保つ。だが一週間も経てば、その仮面は既にぼろぼろになって、合間からは醜く狂った私の本当の顔が姿を現す。私はきっと世間が言うところの真っ当さを何一つ身につけず、大人と子供の中間の奇妙な生き物になった。真っ当に育たなかったのだから仕方ない。選べなかったものはどうしようもない。私はよく『ニーバーの祈り』を思い出す。小さな趣味であるタロットのカードを広げるときにはいつも呪文のように唱えている。近頃はそらで言えるようになった。

 『神よ、願わくば私に変えることの出来ない物事を受け容れる落ち着きと、変えることの出来る物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ』

 この文句は、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5(屠殺場5号)」に出てくる一節で、主人公の部屋の壁に掛けられている。ヴォネガッドはこの後、登場人物である主人公のビリー・ピルグリムに向かって、地の文でこう付け足している。

『ビリー・ピルグリムが変えることの出来ないものの中には、過去と、現在と、そして未来がある』

洞察力に優れた作家によると、世の中なんてそんなもんである。私も半分はそれに賛成する、賛成せざるを得ない。この小説の中で、ビリーは、戦争の真っ只中に放り込まれたり、宇宙人に連れ去られたり、捕虜になって病棟に突っ込まれたりする。彼自身の意識は時間を飛び越えることが出来るようなのだが、物事を何一つ変えることの出来ないまま苦痛を経験する。もし人間に自由意志というものが存在せず、神が定めた通りの人生を生きるのなら、生きる意味などあるだろうか? という問いは何百と繰り返して問うてきたように思う。過去の出来事も、未来の出来事も、現在の出来事も変更不可能であると仮定するならば(多分この仮定は半分の真理だ)、私たち人間に変えられるものはいったい何であるか、という問いが浮上してくる。私の答えは、人間に自由意志が存在しないと分かっていながら、自由意志が存在するように振る舞うということである。自分には正しい意味で物事を選ぶことが出来ないと分かっていながら、物事を選び取ったのは自分であると信じることである。そう錯覚でもしないと、おそらく理屈屋の人間は生きることに意味を見出せずに苦痛だらけの人生に耐えることができない。何にも考えずにただ楽しく暮らすことの出来るなら、それは得がたい才能だが、私はそちらの方面の才能は徹底的なまでに皆無である。学生の頃、お前は何でも悪く考えすぎなんだ、と顔も覚えていない誰かに言われたことがあったが、考えることだけが唯一の取り柄なのだから仕方ない。ニーチェは神を殺し、神が存在しないのであれば罪や罰も存在しない、従って人間には神から与えられた人生というものは存在せず、意味もまた存在しないというような主張を立てた。人間が宗教の元に打ち立てようとした幸福や論理や人生の意味を全て白紙に戻したのである。この点に関して、眉をひそめるひともおられるかもしれないが、私は複雑な理由と単純な感情からニーチェに賛同する気持ちがあって、しかも本当に答えを出さないといけないのはこの問いの先にあるのだということも確信している。スローターハウスの小説で、人生について知る必要のあることはカラマーゾフの兄弟の中に書かれている、と言い放つローズウォーターという人物がいる。彼は続けて、でもそれだけじゃ足りないんだ、と言う。おそらくドストの大審問官の中で提示されているものは――無神論者であるイワンが問うたことは――ニーチェが問うたことと繋がっている。彼らは何千年と続いてきた既存の価値観を破壊することには成功したが、そこから先に存在している実際の人生に対して意味を与えるような解答を用意できた訳ではなかった。このニヒリズムの坑から出られる方法を私は見つけられず、もし小説を書き続けることで、自分の中に通常の自分では出せないようなこの問いの答えを無意識に炙り出すことができれば、この光ひとつ差さない場所から出ることが出来るかもしれないと考えている。

 

こんな話をするつもりではなかったので、現実の話に戻す。古物商申請の件だけど、今日ようやく申請書類を警察の方に受け取って頂けた。四十日後辺りに許可が下りるらしい。部屋も点検するそうなので、念入りに掃除しなくてはならない。実際の梱包材やら商品を送る手順にサイト構築等、いくらかやることがある。やることがあるのはいいことだ。余計なことを余り考えなくて済む。公募小説の進捗はほぼ八割のところまでは来た。この三日間、Twitter界隈で個人的に色々な動きがあり、何人かの方に励まして頂いたり、相談に乗って頂いたりした。そういう人達がいなかったら、精神的にやられてどうにもならなかったかもしれない。声を掛けてくれたその数人の方々には本当に感謝しています。ありがとう。

 

 kazuma

 

 

 余談:時々、洋楽のPVを観るのが好きです。二、三分の短い時間の中に言語でない物語を感じることが出来ます。お前はそういう柄ではないだろうと言われるかもしれませんが、こういう体験は書くときに役に立つし、そもそも書くことに役立てようと思ったらどんなものでも役に立つんですよね。案外、生きる意味や理由なんてその中に転がっているかもしれません。全てを小説や何か妙なものの為に捧げようとするのであれば。

 

夏の暑さは観念を溶かす

 暑い。頭の中でいくら御託を並べるのが得意でも、この暑さを殺せるのは25度のクーラーだけだ。心頭滅却すれば火もまた涼し、と禅宗ばりの観念論を唱えてみても暑いもんは暑い。グラスに氷を敷き詰めた一杯のアイスコーヒーの方が遙かに役に立つ。ひとはパンのみのために生くるにあらずとイエスは言ったが、どうしてもパンが必要な時というものがある。もといクーラーが必要なときというものがある。もし観念だけで生きていけたとしたら、とっくにそいつは悟りを開いてどこかの宗教の開祖になっているだろう。クーラー教なら私はどこまででもついて行く。但し、クールビズ28度なんていうヌルい教義はお断りだ。こんな文章を書いているのは暑さで頭が馬鹿になっているからかもしれない。夏の太陽の前では色んなことがどうでもよくなる。

 因みに今日は、久々に河川敷を走ろうと思い立って、半袖のランニングウェアを繁華街まで買いに行った。思い立ってはすぐ突っ込んでいって痛い目に遭うという人生を繰り返してきたので、学生の頃に比べて首を突っ込む具合は減ってきたのだけれど、今日は違った。頭の中のストッパーが緩くなった。夏のせいだ。

 速攻で目当てのアディダスの青いウェアを買うといそいそと帰宅。買ってきたばかりのウェアを着て、TSUTAYAで借りてきたDeftechの曲を詰めたipod(夏は何故か聴きたくなる)と二百円だけを持って家を出た。天気予報は無視したというか見ていない。雨は降っていなかったから。

 走り始めると天気の具合が微妙に悪いことに気付いた。曇天で向こうの方では雷が鳴り始めていたが、Deftechの曲を聴いて南国ハイになっていた私は、そのままマイペースに橋の下を三つくらい越していった。すれ違ったランナーは土手を降りていった。賢明な人間なら雨が降る前に濡れずに帰る。定番のランニングコースとなっている通りまで来ると、そこには日曜だというのにランナーはちらほらいるだけだった。その頃、空から雨が降り出した。最初は小雨で気にもならなかったが、さすがに途中で十六連符スタッカートで猛烈にアスファルトを叩く雨には閉口し、鉄橋の下でしばらく雨が収まるのを待った。五分ほど待つと、雨が小降りになったのでその間に駆けた。そこから先は雨宿りできる場所が殆ど無かったから、ペースを上げてコースから抜けていったが、急に走ったせいで少し膝を痛めた。おっさんみたいになったもんだなと思った。結局雨宿りする場所に辿り着くまでに雨はドヴォルザーク交響曲第九番ばりの演奏をはじめ、天の指揮者はタクトを乱振りするので、凡夫である私は泥の付いたランニングシューズで指揮者を称えるように地面を叩きながら、再び錆び付いた鉄橋の下でぼんやり空を見上げて立っていた。音楽を聴きながら走っていると何にも考えなくて良いのだが、イヤホンを外し、雨の音を聞きながら黙って動かずにいると、そういえば文藝賞はどうなったろう、という問いがぼんやり鬼火のように浮かんできては消えた。それから橋の外へ出たくなって、何もかも諦めたように歩いた。途中で自販機があったからポカリスエットを買った。雨でびしゃ濡れになったまま飲んだ、あの青いラベルの透明な液体はこの世の飲み物とは思えないほど旨かった。気が付くと雨が上がっていた。二十五回目の夏が来た。

 

ノンフィクション小説を書く気はなかったけれど、図らずしてそんな文章になった。職業(?)病だろうか。ほんとに職業になってくれればいいんだけれど。

 

人事尽くして天命を待つ。

 

Do my best and leave the rest to Providence.

 

kazuma

 

自由人一ヶ月目

 仕事を辞めてから一ヶ月が経った。そろそろここらで近況報告でもしておこうと思い立ったので書く。
 私は割と元気にやっています、と書くと、病棟から手紙を出す少女が書くような文面を思わせるので気が引けるが、それなりに平穏な日々を送っているので、気持ちとしてはその通りだ。辞めて二週間が経った頃、足元が落ち着かなくてそわそわするというようなエントリを書いたが、今では大分収まって、少しずつ生活にリズムが戻ってきたように思う。言い換えれば、落ち着いてきたということだ。辞めた直後は、一日中本を読んだり、小説を書いたり、映画を見たり、結構好き勝手なことをやった。前の職場の人と食事をしたり呑んだりして、思わぬところで珍しい古本を譲って頂くこともあった(辞める前に古本屋をやることは言っていた)。今も大抵好きなことをやっているが、小説を書き、読む、ということと、古本屋の仕事の準備だけは、欠かさないようにしている。これがいずれ生業になってくれるだろうということをいつも信じて日々を送っている。もしこれらが生業にならなかったら、自分はどうにもならないだろう、とも思う。不確かな道の上を歩いているのには違いないが、決まったレールの上に乗せられて特急列車で会社行きなんて道は望まなかったし、その道は既に断たれてもいるから、半分の恐怖と半分の愉快をやじろべえみたいに抱えて、自分の線路の上をちょっとずつ歩いている。後悔はしていない。特急列車に乗っていたら、いずれどこかのタイミングで窓から放り出されていただろう。降りた場所が自分の行きたい方向でもなく、重たい荷物みたいに捨てられるだけなら、そうならない内に列車から降りて、自分の決めた砂漠みたいな方角に向かって、ひとりでてくてく歩いて行く方が良い。その内、オアシスでも見つけるかもしれない。

 小説の進捗は、約七万字で原稿用紙換算一九八枚になった。これは群像応募用で、残り五〇ページを七月中に仕上げてしまおうと思っている。規定は二五〇枚以内だから、そろそろ話に纏まりを付けなくてはならないが、いまだに話の風呂敷を広げているから頭が痛い。本当にきついところは、広げるところではなく最後に話を包み上げるところだ、ということは、ものを書いたことのある人間なら誰しも分かることだと思う。完全に近い未完の原稿よりも、不完全でも校了まで辿り着いた原稿の方が価値がある。小説というものが人間によって生み落とされたものであるならば、その赤子である物語は、結局のところそれを書いた人間と似た性質を帯びているはずだというのが私の持論で、人間がいずれ終わりである死を迎えるのなら、小説も物語の輪の中で一度終わりを迎えなくてはならない。もし不老不死の人間がいたとしたら、永遠に話の風呂敷を広げて、終わりを迎えることのない小説を書いて、完璧であることを目指していてもいいけれど、私たちには、限られた命の分の時間しか与えられていないし、文字を書いていられる自分というものは、いつまでも存続するものではないある意味貴重なものだから、それを武器として戦おうとするのなら、限られた期間で書き上げるまでやるしか道はないのだ。

 古本屋の方は、古物商申請に必要な書類を集めながら、サイトをちょこちょこ構築している。一応、おそるおそる独自ドメインを取ったり、商品画像を上げて短文を書いたり、自作でロゴを作ったりと、こちらの方は、まあのんびりやっている。必要書類が色々と多くて、本籍地でないと取り寄せられない書類だったり、法務局で手続きを取らないといけないものがあって、時間がかかる。郵送請求はしたが、全て揃うのは一週間後くらいだろう。そこでようやく警察署に古物商の申請が出来る。もし待って下さっている方がおられたら、まだ開店まで漕ぎ着けられなくて申し訳ないのですが、またkazumaが何かやっとるな、くらいに思って頂けると有り難いです。極度のマイペース症候群なのは全く変わっておりません。どれくらいマイペースかというと、そこら辺を歩いているダンゴムシレベルなので、時々意味も無く丸まったりしながら、地べたを這いずり回って生きています。でも、週五で出勤していた日々に比べて、いまのお前の日々は充実していないだろう? と訊かれたら、きっぱりノーと答えます。
 ホールデン・コールフィールドに共感を覚えるような人間だったら、彼と友達になりたいと思うような人間だったら、きっといまの世の中のレールの上を渡っていかないと思うのです。私は彼と友達になりたかったから。彼が私のことをインチキ野郎と呼んだとしても。

 

以上、自由人一ヶ月目の戯れ言でした。

 

(了)

 

kazuma

 

余談:リアム・ギャラガーの「Wall of glass」が格好良すぎて、つまらない私の日々などぶっ飛びそうです。ずっと聴いています。

 

 

Remaining Days:639

 

 

 

「愚者」とマイノリティーの幸福

今日は執筆とはあまり関係の無い話。全く関係ない。

半年前くらいからタロットにはまっている。といっても、少し囓った程度で、ケルト十字(という占い方がある)ばかりを広げて、カードの前でうんうん唸っていたりしている。占いなんて嘘くさい迷信の一種で、そんなものを気に掛けていたら、何も自分で決められなくなる、と昔は思っていた。小さい頃の憧れはやはりシャーロックで、本の中で彼は徹底的なまでに論理を駆使して、依頼人からの難題を切り抜けていく。それは、私にとってのスーパーマンみたいなもので、「緋色の研究」でガラス壜の並んだ部屋で血液に反応する試薬を作って大喜びしているシャーロックは、どこか突き抜けた格好良さというものを幼い私に提示した。小学生の頃、科学者になりたいなどという、今の自分からすればたわけたことを抜かしていた時期があったが、その頃、数学の素養が自分に全くといっていい程ないことには勿論気づかず、マイナス×マイナスが何故プラスになるのか、という中学生最初の暗黙の了解を了解できなくなることを知らなかった。いまは了解している(振りをしている)が、説明しろといわれたら、丁重にお断りする。ゆとりですみません。誰か教えて下さい笑

 学生の頃から相変わらず数学的素養は毛ほどもないままだが、その代わりに本は読んできたつもりでいる。国語の試験でよく出る、小説を一部切り抜いた文章を読んだりするのが好きだった。作者の気持ちなんぞ五十字以内で表現されたらたまらないだろうと思いながら問いの空欄を埋めた。出題の文章が読みたくて、適当に記号欄を埋めて、そっちのけにしたこともある。引用の文章末尾には括弧の中に、題名と作者が書いてあってそれを頼りに本屋に出向いて探したりもした。完全な文系人間だ。シャーロックとは器質的に真逆である。シャーロック・ホームズの冒険譚を書くのはジョン・ワトソンであって、ホームズではない。にも関わらず、私はいまも部屋にシャーロックのポスターを飾っている。結局、私は自分と反対のものに惹き付けられるのだろう。幼い頃に憧れたものは、幾つになっても特別なもので在り続けるように思う。

 話が脱線したが、文系(文学)人間というものは基本的に合理的なものよりも非合理的なもの、形が与えられているもの(具象)よりも形のないもの(抽象)についての理解を好む、もしくは長けているという傾向があるように思う。数学や科学が扱うのは、記号の中に置換できるものであって、その記号が示すものは世界中どこに行ったって共通の理解のもとに成り立つ普遍性を持っている。一方、文学の場合は扱う記号である言葉は、共通理解もくそもなく、ある人物Aが林檎という文字を見て浮かべる映像と人物Bが林檎という文字を見て浮かべる映像は違うものであったりする。ドストレートに赤い林檎を浮かべる人間も居れば、欧米圏の生まれだと青林檎を思い浮かべたりするかもしれない。「林檎」を英語に置き換えて某有名企業を思い浮かべる輩もいるだろう(いつもお世話になっております)。また、文章の流れの中で一文字でも位置がずれたり、入れ替わったりすると、使われている言葉や指し示す意味が同じであっても、読む(受け取る)側の印象は違ったりする。「林檎のなっている木」と「木になっている林檎」は違う。前者は木そのものに視点が投げかけられているが、後者は林檎のほうに視点があたえられている。助詞と順序を入れ替えただけでこれである。数万字の小説の感想が一致しないのはいわずもがな。その意味のブレ具合、解釈のバリエーションがある可能性、というものを楽しむのが文学の面白いところだと思う。個人的にはそのブレ幅が大きければ大きいほど面白い文学かもしれないなと思う。誰から見ても面白くて、誰が読んでも素晴らしいという感想を持つようなベストセラーは数年後には忘れられて、某新古書店の棚に山積みになっていたりする。そういう本が悪いとは思わないし、むしろミーハーである自分は結構食いついたりもするのだが、長い時間を経て残っていくのは、ああでもない、こうでもないという解釈の可能性が沢山残っている謎を残していった文学者達の作品なのだ。ドストの「大審問官」の解釈はまだ百年後も続くだろうし、ダンテの描いた「地獄」だって現に七百年後も残っている。あるいは芥川や太宰のように彼らは何故死を選んだのかという作者そのものへの謎を解くために作品を紐解くようなこともある。アプローチは何だってよくて、とっかかりは突拍子な思い付きでも構わない、その自由な謎の解き方に、私は惚れ込んでいるのかもしれない。シャーロックとやり方は違うかもしれないけれど、そういった謎に惹かれる気持ちだけは同じなのだ。だから、いまでも彼の背中を見ているような気持ちでいる。

 脱線しまくりだが、そういう非合理的なものや一見「愚か」と見える物事の中にも、実は合理的な考えからではすぐに辿り着かないことを得たりすることがあり、自分の場合はそのひとつの方途として、タロットを使っていたりする。タロットの中には大アルカナという二十二枚のカードの枠組みがあって、その中に「愚者」というカードがある。

 

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<写真:大アルカナ 0番 「愚者」のカード>

 私はこのカードが気に入っているのだが、写っている人物は、側にある崖なんて全く気にもせず、白い犬が吠えて忠告している(ように見える)にも関わらず、彼はそんなことは露とも知らない顔をして、弁当みたいな包みを持って何処かに旅立とうとしている。このカードを見ると、私は、カポーティの「ティファニーで朝食を」の一節を思い出す。

 それでも、折に触れて彼女(ホリー)は妙に念入りに何かを紙に書き付けた。その姿を見ていると、僕は学校時代に知っていたミルドレッド・グロスマンというガリ勉の女の子を思い出した。湿った髪と、汚れた眼鏡のミルドレッド。蛙を解剖し、スト破りを阻止しようとする人々にコーヒーを運ぶしみのついた指。その表情のない瞳が星に向けられるのは、その科学的重量を算定するためでしかない。(中略)ひとりはごちごちの現実主義者になり、もうひとりは救いがたい夢想家になる。二人が将来どこかのレストランで同席するところを僕は想像する。ミルドレッドは相変わらず栄養学的見地からメニューをじっと睨んでいる。ホリーは例によってあれも食べたいこれも食べたいと考え込んでいる。この二人はいつまでたっても変わらない。同じように迷いのない足取りで人生をさっさと通り抜け、そこから出て行ってしまう。左手に断崖絶壁があることなんてろくすっぽ気にかけずに。(「ティファニーで朝食を新潮文庫版 村上春樹訳 p.92-93より引用)

 ミルドレッドはフリーク(変人)っぽい感じがするし、作中のヒロインであるホリーはおてんばどころか破天荒で色々ぶっとんでいる。二人は両極端な性格を持つ人間として話に持ち出されるが、カポーティは、その二人はある性質においては同じだということを言おうとしている。彼女ら二人は「普通」や「常識」の範囲から飛び出している人間であるし、その性格は対極にさえあるが、彼女らは自分を疑ったり、恥じたりはしていない。だから、「普通」であることの崖なんて怖がっていないし、もっと言えば人生に潜む危険のことなんか顧みずに生きていられる。その自由さが、私には「愚者」のカードと重なる。「愚者」のカードは道化師にそのルーツがあり、彼らはルールに縛られたりはしないで、人から笑われることを何のためらいもなくやってのける。そのことで人を楽しませさえする。そういうことが臆面無く出来る人間というものは多くない。数が少ないから基本的にマイノリティーの側である。私は、自分がやっていることがひとにどう思われるか気にする割には、いまの社会的立場としては完全にマイノリティーの側である。でも、そういう「恥」を越えていかないと、マイノリティーとしての本当の面白みはないんじゃないか、もったいないんじゃないかと思う。社会の基本的コースからは思い切り外れたんだから、ミルドレッドやホリーみたいに、「普通」であることの崖なんて気にならなくなるところまで突き抜けられたらいいのにと思った次第です。

 

これが言いたかった笑 

 

長いのに、読んで下さった方、ありがとうございました。夜も更けてきたので今日はこれまで。

 

kazuma

 

 

 

 

 

執筆小話:②書けるペンとジンクス

前記事の続き。

 執筆中に掠れてしまった愛用ボールペンなのだが、その時にまだ書きたいことがあった為、久しぶりに違うペンを取った。万年筆。PILOTのCUSTOM74である。

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<写真: PILOTの万年筆「CUSTOM74」。このペンは筆者にとって、ジンクスがある>

 このペンを小説に使うのは、本当に数年振りのことで、ペン立てのところにお守りのように屹立しているが、それまでは使われずにいた。万年筆があるのに、何故ボールペンで書いているのかというと、それは万年筆よりボールペンの方が書き易い、というような理由でなく、ただ単に、ボールペンは自分の働いた給料で買ったものであり、万年筆はそうではなく、受け取ったものであるから、という理由に過ぎない。つまりはディケンズ的な意地である。格好良く言おうとしたが、執筆に関わるものは基本的に他の人間に触らせたくない、という神経症物書きが行き着いた先がこれである。サリンジャーはディヴッド・コパフィールド的だと云って笑うだろう。しかし、そのしょうもない細部にこだわる意地こそが、私の執筆を支えている。

 さて、例の万年筆であるが、このペンは私が十九の頃に祝いで貰ったものだ。それを受け取った私は、何度か習作を書くときに万年筆を使用していた。因みにその頃はパーカーのボールペンを所有していない。まだ小説を書きはじめたばかりで、ただのひとつも物語を完結させられず、冒頭のシーンを書いては躓くということを繰り返していた。大学のルーズリーフに殴るように書き付けていたことを覚えている。そのルーズリーフは慌ただしい引っ越しの後で無くしてしまったが、書いていた内容は頭の中に残っている。傘を忘れて雨に打たれている主人公が、水溜まりに異なって映る自身の姿を見て驚き、自らを疑いはじめる……というような話だった。文章は薄っぺらい取って付けたような書き方をしていたと思うのだが、十九の頃に考えていたことと同じことを、いまも小説の中でやろうとしていると知ったら、昔の私は何と言うだろう。おそらく、人間として成長した訳ではないのだ、と思う。十九を越えてから、精神的な成長というか、真っ当な人間が具えているはずのものを得ることもないまま、二十の分水嶺を跨いでしまったような気がしている。そこにはいくらかの断絶すべき理由が存在しているのだが、その境目に立っていた時にたまたま持っていたペンがこのCUSTOM74なのである。言い換えると、私がまだ「まとも」と呼んでぎりぎり差し支えない頃(年の割にということだが)に使っていたペン、ということになる。

 私の中で十九以前と二十以降は、完全に分裂している。それは誰だってそうだ、二十と十九の違いがあるのは当たり前だろうと仰るかもしれないが、私の場合は数字に意味があるのではなく、そこで起きた出来事にあった。出来事が起きるのが遅ければ、違う地点(例えば二十三と二十四とか)で断絶していただろうし、願うことならそんな出来事が起こらずに一生を過ごすことが出来ればどれだけ良かったかと思う。そして、その境目で橋を渡すように、残っている執筆用品は、このペンしか存在しない。昔の自分が書こうとした、水溜まりの鏡の向こう側に居たのは、未来の自分かも知れない、と時々思うことがある。「水溜まりの鏡」とは、その二つに分断された、過去と、かつての未来であった現在の自分を映し出すこの「万年筆」であったかもしれないと、いまの私は思う訳である。

 少々重い話になったが、思い出話をしたいのではない。このペンは書ける、ということを言いたかった。凄く書ける。どの位書けるかというと、ボールペンの二倍である。そんな馬鹿な話があるかと突っ込まれそうだが、そんな馬鹿な話があるのである笑

 理由は全く以て分からない。仮にボールペンを使って五分でB5罫線ノート一頁分を小説の言葉で丸々埋めることが出来る能力が筆者にあったとしよう(そんなものはない)。この万年筆を使うと何故か二分半で一頁を全て埋めることが出来る(トルーマン・カポーティならやりかねない。但し、彼の場合は万年筆でなくBlackwing602の鉛筆)。例は極端だが、実際の体感としてそうなのだ。三十分かかった頁を、十五分で書き上げることが出来るように。

 じゃあずっと使えばいいじゃないか、と言われそうだがそうはしない。前述のように、私にはしょうもない意地がある。それに、ずっと使っていたらジンクスはジンクスでなくなるかもしれない。魔力がありそうなものはとっておくのが一番である。どうしても困ったときに、出せばいい。かつてのイタリア代表スーパーサブデル・ピエロが後半に出てきてフリーキックを決めるように。喩えが分かりづらいし古いか。ウイニングイレブンでやられたら最悪だ。とにかく、一点は決めてくれる。

 

 お後がよろしいようで。

 

 Kazuma

 

 (余談)

 件のボールペンの替え芯、伊東屋のROMEOが自宅に届いたので早速使ってみた。書きはじめから全く掠れず、発色も濃くて良い。ぬらっとした書き心地で癖になる。リピート確定。

 

 Remaining Days:649