虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

言葉の海の底で

 更新が遅くなりました、kazumaです。ここ一週間というもの、書き上げた小説の推敲・修正をしておりました。群像に途中で切って提出した物語の続きです。仕上がってみれば、物語は途中で切ってよいものではなくて、ちゃんと最後まで描ききらなくてはならないだけの理由が、その続きの文字の中に現れてきました。私はそれを蝋燭の明かりの影を見つめるように、見ていたような心地がします。一度消してしまった燭台の火先にもう一度静かに青い火を灯し、白く立ち昇る一条の煙をそこに認めるように。その煙にはきっと意味があるのだと思います。少なくとも私にとっては意味あるものでした。
 
 はじめは、ただ一滴の水、泥濘に出来た水溜まりほどの言葉の羅列は、段々と渦のように重なって廻り、池となり、湖となり、最後には溢れ出すような河となって、ひとつの小説になったように思えます。その文字の渦に、流されたり、沈んだり、時には溺れさえしながら、藁にも縋るような思いでペンとノートだけを握って書き上げました。書き始めたのは、一年前の十月でした。小説が完成に至るまで一年以上の月日が流れました。この一年の間に私の身辺には色々と変化が起こりましたが、結局手元に残ったのは、この言葉達以外にはなかったように思います。小説の中で、いまの自分に云えること、誰にも云わずに籠の中で鳥を飼うように温めてきたことは、いくらかは云えたのだと思います。小説を書き上げると、私は物語に対して、いつも家から飛び立つ雛鳥のイメージを思い浮かべます。暖かな巣の中から出て、時には隣にいる鳥と取っ組み合いをしながら、皆やがては浜辺に足を着け、海の向こうへと飛び去っていく、その海鳥の後ろ姿を見つめているような。物語を振り返って、通しで読み直していると、その鳥がどのように育ち、どんな運命の風に晒されて、飛んでいったかがよく分かります。その鳥はある意味では私の人生の投影であり似姿なのだと思います。時々、小説を書いていると、私はその鳥に向かって――鏡の向こう側にいる自分の影に向かって――語りかけているのではないか、と思うことがあります。そうすることによって、その揺りかごの中にいた雛鳥を育て、一人前にして、それを生み出した者よりも遠くへ行けるようにと願って、書き続けていたように思います。現実の私という人間は、遠くへ行くのは叶わないことが山のようにしてあるから、せめて虚構の鏡の向こう側にいる鳥だけは、私という存在なんかよりも、ずっとずっと遠くまで行って、もう帰ってこなくても良くなるくらい、水平線の向こう側まで、行ってくれと、そういう思いで私はこの一年以上に渡る歳月を、その鳥と一緒に過ごしました。はじめは小さな可愛らしい鳥が、いつしか親のことなんて忘れて、すくすくと育ち、最後には力強く青い空へ羽ばたいてくれるその瞬間を待ち続けていました。まるで全てのものが復活する審判の日に響き渡るラッパの音を待ち侘びるような気持ちで。きっと私という人間の姿形が燃え尽きた煙草の火のように消えゆくことがあったとしても、その灰皿の底に溜まったいくつもの言葉の灰が、不可思議な魔術の小径を通り抜けて蘇り、再び鳥の姿を形取るように、私の代わりにもう少しの間だけ生き続けてくれるような思いがします。その言葉の鳥達だけが残ってくれれば、もうそれだけで十分なんじゃないかと、その一羽だけでも伝書鳩のように誰かの胸に言葉を届けてくれたなら、それ以上望めることなんてないのではないかと思います。
 
kazuma
 

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