虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

オンライン執筆グループ、『空閑』がスタートしました。

 こんばんは、kazumaです。新潮新人賞の原稿執筆の為に、長いこと潜っておりましたが、目処が付きましたので、ブログに戻って参りました。今日は、前回の記事でお伝えした執筆グループについてのご報告です。
 
 二週間ほど前から募集を行っている、オンライン上での執筆グループですが、多くの方に、ツイートや記事を見たよ、と仰っていただいて、嬉しい限りでした。現在は、私含め16名のメンバーが、執筆グループ『空閑』に参加しています。『Slack』というオンライン・ワーキングスペースを使用し、現在進行形でゆるゆると活動しています。グループスペースは、オンラインチャットと掲示板を足して二で割ったようなもので、主にメンバー同士の交流の為に使っています。自作小説を読み合って意見交換をしたり、原稿の進捗を互いに励まし合ったり、談話室で雑談をしたり、と自由にマイペースな感じでやっています。
 
 一応、執筆グループを立ち上げる為に、最初の段階で色んな方にお声掛けをしましたが、私は一参加者としてグループに参加する形で、運営者は参加しているメンバー全員ということでやっています。割とフラットに、色んなジャンルを書いている方がいて、年代・性別、執筆環境や目的もばらけた感じで集まっていますが、だからこそ学ぶものがあるし、皆やっぱり小説が好きだ、というその一点で繋がっているんだなということは、強く感じます。
 
 グループ名は『空閑』と書いて『ソラシズ』と読みます。執筆グループの名前を募集した時に、メンバーのある方がこの名前を提案してくれました。閑な時間に集まって小説の話が出来る『空閑』(くうかん、とも読めます)というダブル・ミーニングも相まって、メンバーの満場一致で決定しました。自分じゃ百パーセント思いつきようのないグループ名でしたので、考えていただけて良かったなあ、と純粋に思います。『空閑(ソラシズ)』という名前を覚えて貰えれば幸いです。
 
 まだ生まれたばかりの『空閑』ですが、これから徐々に、息の長い活動になってくれれば良いなと思っています。メンバーは随時募集しておりますので、グループにご興味のある方は@kazumanovelまでご連絡ください。小説が好きで、話し合ったりしてみたいという方なら誰でもご参加いただけます。好きなときだけ、Slackのグループ・スペースを覗いたり、書き込んだりできますので、気軽に入っていただけますよ。
 
 この前、グループ内でこんな話がふっと出ました。グループの中から文学賞の受賞者が出たら、夢みたいですね、と。メンバー全員が文学賞に向けて書いている訳ではないですし、小説を書く理由というものは、ほんとに人それぞれなんですが、その話を聞いた時、いつかそれが夢の話ではなくなればいい、と思いました。何年掛かったとしても、私は(あるいは、私たちは)小説家になりたくて書いてきたし、同じ思いで書いてきたことのある人たちがこの網の目の上にはいて、互いに切磋琢磨し合いながら、それぞれの望む文章の道に進んでいくことが出来ればと思って、立ち上げた、というのが本音なので。
 
 誰だって、いまの文章のままで立ち止まっていたくなくて、物語に見合う言葉を、森の中を必死で駆け抜けるように探している。森の中で、言葉の樹に生った林檎をこの手に掴んで味わいたい、というひともいれば、それを唆す蛇を自らの裡に飼おうとするひともいる。あるいはただ、森を越えた頭上の空を旋回する鴉を見上げるひともいるかもしれない。地面に落ちた団栗を綺麗だと思って無くさないように拾う人もいる。小説を書き続けて、その森の茂みから抜け出す頃には、皆が思い思いのものを抱えていて、それぞれの森を抜けていく。振り返ったときに、私たちには私たちだけの足跡が――、物語が見える。森の中に自ら迷い込むように足を踏み入れるのは勇気がいるし、森の外にいる人間には決して分からない孤独がある。単独行で物語の中へと突き進んでいくのが、ものを書くという勇気であることに違いは無い。けれども、言葉の森というものは、実は皆、何処かで繋がっているものだから、誰かが声を上げたら、ちゃんと声は返ってくる。時に道が交わって出会うこともある。言葉の森の中に居るのは自分だけじゃないと分かったら、ひとりぼっちで歩いている訳じゃないと分かったら、もっと森の中に深く入り込んで行けるかもしれない。自分では全く気が付かなかった道が、遠くの誰かの一声によって現れるかもしれない。その道の先にある文学は、自分一人では決して辿り着きようのなかったところへ、連れて行くように思えます。その先には別世界へと続く扉の門が聳えている。誰もがその虚構の門を叩いて開く為に、書くことを望むのだから。扉の先にあるものを、この眼で見ようとして。
 
言葉の茂みに隠された、誰の足跡もない深い森の中へ。
 
kazuma
 
追伸:新潮新人賞原稿の初稿が、原稿用紙換算117枚で完成を見ました。推敲の後、滑り込みで提出予定です。ようやく終わって、一息付けました。これから動いていくことが沢山あって、この一年を抜けた先には何があるだろうと、思っています。
 

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近々、オンライン上で執筆グループを立ち上げます。

 こんばんは、kazumaです。今日はお伝えしたいことがありまして、記事を書いています。表題の通り、オンライン上で執筆グループを立ち上げたいと思っています。これはずっと昔から暖めていたことで、中々実現出来なかったのですが、案ずるより産むが易し、ということで、これ以上待っていても仕方ないと判断し、取り敢えず動いてみることにしました。
 何度かこの件に関わることは、ブログでも取り上げてみたり、Twitterでも発言してきました。小説について語り合える執筆仲間や場所を探している、ということを記事に書いたり、ツイートしたりすると、何人かの方が反応してくださって、同じような思いを持っている方はいらっしゃるんだな、という手応えはありました。一対一の関係で、メールやTwitterで、小説についてやりとりする中で、自分では思いも寄らなかった点に話が進み、こんなことを考えていたのかということが分かったり(逆に分かっていないことが分かったり)、ある時は単なる執筆の話を越えた、身の上話まで、ご相談させていただいたこともあります。このオンラインの網の上に、偶然紡がれることになった言葉に何度も助けられた経験があるので、そんな言葉のやりとりがもっと広がったり、深くなったりすればいい、と個人的に思っていました。何処にも行き場のなかった、小説が好きなだけの自分に、声を掛けて話をしてくださった人たちが、確かにこの網の向こう側にはいるのだ、ということが分かっていたから。
 ものを書く人間は、基本的には孤独な人間だと思います。小説を書くという行為は徹頭徹尾、書き手ひとりが行うもので、その行為には誰も介在する余地はありません。一字一字を、自分のイマジネーションと語りによって詰めていく作業には、通常の生活では感じることのない種の苦しみと、それを越えていくことで広がっていく物語の喜びとがあります。私たち書き手は、執筆に行き詰まっては苦しみ、誰かに語ることを求めたり、あるいは書き上げたことに対する喜びや、琴線に触れた物語を分かち合いたいと思うことがあります。ただその相手は、思ったほど身近にはいなかったりする。
 書き手と云ってもペンとノートとタイピングから離れれば、やはりひとりの人間であって、そういう執筆から離れた時には、孤独であるという、執筆中には普通であったそのことによって息苦しい感じがしたりします。書くことの孤独と、ひととしての孤独はまた少し意味が違うのではないかなと思っています。なのでもし、そういう閉塞感や小説について話す場が何処にもない、と感じている方がもしいらっしゃるのであれば、お互いに好きな小説の話でもして、互いに刺激し合いながら、書いてみませんか、ということです。
 私自身、オンライン上で誰とも話をしなかったとすれば、いま書いている小説の形は、なかったのではないかなと思っているので。
 ほんとは小説を書いている人の方が、誰かと関わったりすることを求めていたり、必要としていたりすると思うんです。だって、普通の人よりも孤独である時間は必然的に長いし、そういうことに向いている人間が小説を書く訳ですから。でも、物語を書くということは誰かに向かって伝えたいことがあるから、伝えなければならないことがあるから、書いているひとが多いので、何かしら語りたいことはきっとあると思うのです。 
 私の場合は、現実では云えなかったり、言葉に上手く出来なかったりしたことを、物語に託しているところがあります。孤独であることが随分長かったし、いまでもそうです。だからもし、そんな風に現実の何処にも自分の居場所がないように思えたりしていて、小説というこの『虚構世界』の中で生きていたいな、と思うようなひとにこそ、是非この執筆グループに参加して貰えれば嬉しく思います。もちろん、社交的で小説が好きだという方も大歓迎です笑
 オンライン執筆グループの運営拠点としてはSlackというオンラインサービスを利用して活動していこうと思います。書き込みやチャットなどのサービスが無料で利用できるところで、昔のネット黎明期によくあった『談話室』や掲示板みたいなものです笑 そこで、小説について話たいことがあれば、自由に書き込んで、誰かが反応してお話していくという感じです。いまのところは、Twitter上での私のお知り合いの方が参加されています。既にご連絡いただいている方には、順を追ってご招待メールをお送りします。参加されたい方は、メールアドレスだけご用意ください。
 基本的には、Twitterのアカウント(@kazumanovel)、このブログのコメント欄、あるいは知っている方は私のメールアドレスまで、どんな手段でも結構ですので、ご連絡いただければご参加可能です。今のところは、取り敢えず人に集まっていただいているだけなんですが汗 徐々にゆるゆる活動していこうと思っています。まだ正式な立ち上げではなく仮メンバー募集と云った感じで、様子を見ながらやっていきます。参加も退室も自由ですので、お気軽にご連絡ください。お待ちしております。
 
kazuma
 

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(※写真はイメージです笑 photo by :写真AC)

『展望』

 時々、ひとりで文章をせっせと書き続けていると、もがいても足掻いても前に進むことの出来ない沼地に、露とも知らぬ間に足を踏み入れてしまっているのではないか、と思うことがある。沼の向こう側には見惚れるほど綺麗な水の流れる沢があって、そこばかりに眼を向けて歩いていたら、足下に気が付かなかった。振り返れば、かつてあった安定した土塁は側になく、足を抜くには深入りし過ぎている。遠くに流れる水の美しさだけが、いまも眼の底で煌めく火を灯すように輝いている。
 
 プロの作家を目指す、と書き始めた頃は何の恐れもなく口にした。崖から飛び降りる怖さを知らない『愚者』と同じく。このブログで公言しているように、勿論、その目標が他のものに代えられる訳はない。文章を書く人間や、何かを表現していこうとするひとは、何処かしら清水の舞台から飛び降りるような蛮勇を胸の裡に囲っていなくてはならないと思う。でも、その恐れ知らずの勇気だけでは、プロの文筆家にはなれないのだと云うことが、挫折と批判と冷たい社会の眼を通して、徐々に分かってくる。私には筆以外には何もないのだから、折る筆もないのだけれど、人の居ない山岳を単独行で登っていこうとする種類の辛さが、文章を書く中には確かに存在している。誰も通ったことの無い道を自ら進んで通っていけるもの。新しく生まれてくる文学には、そうした前提が必要なのだと思う。私はまだ先人の足で踏み慣らされた轍の前で、足踏みして居る。誰も通ったことのない、自分だけが知っている道が、見つからない。
 
 昨年十月末に応募した、第六十一回群像新人文学賞の最終選考通知はなかった。例年、二月中には連絡があるというのが公募界隈での定説であるから、選考の発表期間のことを鑑みても、最終選考には今回も残らなかった、と考えるのが妥当だ。読んだ人に徹底的に酷評された作品でもあったので、通るのは苦しいだろうと見ていたが、その通りになった。これを挫折と呼ぶのかは分からないが、七、八回と落選を繰り返すと感覚は徐々に麻痺してくる。落胆はしている、面と向かってお前には文を書く才能がない、と云われているようなものだから。作品を目の前でびりびりに破られることと同じだ。やり口がスマートになっただけのことだ。今頃、送った原稿は、何処かのゴミ箱に丸ごと入れられて、遠くの焼却場で恙なく焼かれて灰になっているだろう。
 
 何百回と本を読んでも小説というものが分からない。何十万字と文字を書いても、言葉が自分だけが表現しうる言葉にならない。月並み。云わんとしていることが、云えない。その内、云おうとしていたことが何だったかも、分からなくなってくる。ある人は、長い時間を掛けて小説がようやく分かった、という。自分にはどれだけ時間を掛けても小説というものが分かる気がまるでしない、生まれついた頭が悪かったんだろうか。
 時々、自分がどうして書いているのかが、発作的に分からなくなる時がある。小説家、と言う誰しもが知っている肩書きが欲しかった? 得られる賞金と、文筆家としての未来が? それによって手に入れられる新しい生活が? ――そんなものの為に、文章を書いているのだとしたら、それらを文章で手に入れようとする必然なんて何処にもなかった。普通に社会に出て、働いて、サラリーマンの肩書きを得て、堂々と社会で戦って手に入れれば良かったのだ。自分はそうはしなかった。社会から背を向け、溝板を這いずる鼠のようにのたうち回り、病を引き摺ったまま、書いてきた。出来なかった、という理由も少なからずあっただろうけれど、それ以上に、この袋小路に見える細い細い路に進んだのは、何処かできっと自分が選んできたからだ。このしみったれたような孤独の日々は、行き止まりの壁を思い切り蹴破るまで、どうすることも出来やしない。ただ現実を粛々と受け容れて、怖くても筆と共に進んでいくことの他に、路なんて最初からないのだ。
 
 新潮新人賞向けの原稿は、十二末から筆を執り始めてようやく六十枚を超えてきたところだ。筆が突然進まなくなることがあり、そういう時に本当に逃げ出したくなるような気持ちになる。けれども机から背を向けるようになったら、本当にお終いだとは誰が云わずとも分かる。年月が徐々に真綿で首を絞めるように迫ってくる。駄目になった原稿の束が積み重なる。生活はちっとも楽にはならない。相も変わらず病に苦しめられることに変わりは無い。そういう一切のものを代償としてよい、換わりに自分だけの言葉が欲しい。それが本当に見つかるのなら――、それを手に入れる為だけに、私は沢山のものを諦めて、掌で大事に握り締めようとしたものを、路端の排水溝に片っ端から擲ってきたのだから。
 
 苦しみと引き換えに、同じだけの言葉を。
 
 kazuma
 
 近況報告:再就業が決まりました。古本関係の仕事です。古本の仕事と個人でやっている一馬書房で最低限の糊口を凌ぎながら、何とか文章の道で生きていけるようになろうと、いまも、もがいています。同じように苦しみながら小説を書くひとと、共に目指す路を歩むことが出来ればと、思いながら。

 

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上記写真:筆者撮影。夕焼け色に染まる河。綺麗だと思った。河は昔から好きだ、何故かは分からないけれど)
 

『純文学って何だろう』

 つい先日、執筆会なるものに参加する機会がありました。それぞれが書くジャンルは異なるのですが、創作活動をしている方が集まって、作品を作ったり、合間にお話をしたりする会です。私は飛び入りのような形で入ったので、簡単な自己紹介をする必要がありました。なので一応、ジャンルは純文学を書いています、と云いました。しばらくして、こんな質問が投げ掛けられました。純文学って何ですか、いまいちよく分からない、と。正にごもっともな質問です。この質問を受けた時、これは返すのが難しい問題だと直感しました。純文学を書いています、と云っておきながら、それが何であるか、はっきりとは答えられないことに気が付きました。慌てて、記憶の片隅にあった好きな作家さんが云っていた言葉を返しましたが(『言葉がその言葉以上のものを表していること。辞書的な意味を超えているもの』)、自分で得た知見ではないので、完全に付け焼き刃の回答で、相手の方も当然納得している様子はありませんでした。自分でも云っていて、かなりあやふやなことを云ってしまっているとは、分かっていましたが……。
 
 そういう経緯で、『純文学って何だろう?』という純粋な疑問が自分の中で芽生えてきた訳です。会が終わって、家に戻ってもずっとそのことが頭にありました。もしこれからも、純文学を書いています、と云うつもりなら、少なくとも純文学とは何か、他の人に対しても分かるような言葉で説明できるようになっておく必要があります。そうでなければ、自分でも何書いてるか分かりません、と正直に云わなくてはならなくなるでしょう。もっとも自分が書いているものに関しては、それが正味のところの本音なのですが。これが純文学だ、と分かって作品を書いているのではないので。ある人には、あなたが書いているものは小説ではなくて、ただの自分語りだと云われたこともあります。悔しいけれども、その時は頷くしかありませんでした。
 
 とはいえ、この疑問を避けて通ることは、最早私には出来ません。執筆会が終わって五、六日経っていますが、まだ考えています。辞書に書かれている「純文学」の定義としてはごく簡潔に「大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学。」と記述があり、この説明では東の反対は西だ、くらいのことを云ったようなもので、やはり納得する回答にはならないでしょう。執筆会のメンバーのある方は、過去の文学者たちが生み出してきた作品の文脈や歴史、文学の流れを理解した上で、自分ならこう書くというものを作品として成立させることを趣旨として挙げられていて、それで尚且つ、大衆文学やエンターテインメントのように、読者を単純に楽しませるものではなく、自分の内側を掘り下げたもの、という回答をされていました。私の付け焼き刃の回答よりも遙かに分かりやすく、納得もいくのですが、私自身の答えではないので、この回答を踏まえた上で、自分の言葉にしなくてはならないだろうなという思いがしました。
 また、古本市を通じてお知り合いになった古書店の店主さんも、純文学についてお話してくださりました。ある作家の説明によると文学は四つに分けることができ、その内のひとつが純文学であり、前述の過去の作家達の文脈を理解した上での創作、というのがまず純文学の前提としてある。その上で、純文学とは批評から生まれてくるもので、その根幹にあるのは現実に対するアイロニー(皮肉)なのだと。現実の物事に対して、その中に入っていって感傷的に出来事を経験する様を描くのではなくて、その事物から一歩離れ、俯瞰した姿勢の上で書かれたものが純文学なのだと、仰られて、思わず唸りました。私よりもきっとその店主さんの方が純文学の小説が書かれるのではないかという気がするのですが、とまれ、私もそういった自分の答えを出しておかなくては、いずれまたこの質問をされる度に立ち止まることになってしまいそうです。
 
 川沿いの路を歩きながら、純文学って何だろう、何だろう、何だろう……と馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返していましたが、そもそも言葉の定義もあやふやなものから思考を展開することは、人間には中々出来ません。そこで一旦、自分に立ち戻ってみることにしました。私が書きたかった文学とは何なのか、と。人前で、純文学を書いていますと云うからには、自分が書いているものが純文学ではないだろうかという意識があります(少なくとも、私は純文学を書こうとはしています。エンターテインメントを書こうとはしていません)。何故そう思うのかというと、私は大衆小説にあるような娯楽性や、読者の嗜好に合わせたストーリーの展開、読者が求めるような魅力あるキャラクター、推理小説のような技巧の緻密さ、そういったものを中心にして物語を書こうとしているのではなく、それよりもむしろ個人的な内面にある悩みや、ちょっと他人では理解し難いような苦しみと云ったものに突っ込んで、物語の中で描くことを望んでいるからです。そしてそれが、個人的なものを超えて、普遍性を持つようなものになった時、それを純文学と呼ぶのではないか、という考えが私の中にあります。
 普遍性。やっと言葉が出ました。これがどうやら純文学を表すひとつの鍵になりそうです。純文学と呼ばれる作家の作品の中には、普遍的な悩みや苦しみを扱っているものが多いです。例えば、芥川龍之介の『鼻』は、鼻が人よりも大き過ぎた為に、何とかそれを治そうとする僧侶の話ですが、簡単に云ってみれば、これは誰しもが持つコンプレックスについて話していることだと分かります。鼻がもし別の部位であったとしてもこのお話は成立するでしょう。読み手が人目から見て気になっている部分に置き換えて読むことも可能です。なんなら、それが精神的なものであっても構わない。内供は鼻についての悩みを自分固有のものとして捉えていますが、実は読み手からしてみれば、それは別のものにも交換可能な器を持った物語なのです。何故、物語において固有の悩みとして描かれたものが、他のものと交換可能かというと、芥川龍之介が特異な『鼻』を持った内供の話を、誰しもが持っているコンプレックスという普遍的な悩みについて考えることの出来るように、誰にでも分かる文章の形に置き換えているからです。仮にもし、芥川が個人的なコンプレックスのようなものを抱えていたとして、それが誰にでも分かるような普遍性を具えた物語を生み出せなかったとしたら――つまり、普遍性が欠けていた物語になっていたとしたら――その物語は純文学の範疇から外れ、漱石は『鼻』を褒めたりはしなかったでしょう(実際はそんなことは有り得なかったのですが)。
 現代の純文学と呼ばれる作家の作品のテーマを見ても、その中には必ず誰しもにも相通ずるような、時代を経ても変わらないようなテーマが潜んでいます。例えば、純文学作家の中村文則さんは、『教団X』をはじめ、『悪と仮面のルール』や『掏摸』といった著作で一貫して、人間社会の中の悪、ひいては人間自身そのものに具わった悪について描かれています。誰しもが、何かしら気付いてはいるが、言葉には出来ない人間の昏い部分について、物語で分かるように示されています。また村上春樹さんの初期の作品は、若者が人生に意味や価値を見出せなくなっていく時代に、意味がないこと、一見してナンセンスに見えるような人生にも価値がある、ということを初めて肯定した作家であったと思います(恐らく、同じことをやろうとした作家はいたのかもしれませんが、ここまで広く読まれ、影響を与えることになったのは彼ひとりです)。これも、村上さんが描いた物語の中に、共感するような普遍性、誰しもが持っていて、あるいは誰しもが持つことを望んでいる物語が、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』『羊を巡る冒険』にあったからだと云えます。「僕」と「鼠」の固有のストーリーから、読み手は彼らの生き方に共感と憧れを抱いた。それは読者と交換可能な物語だったのだと思います。
 交換可能。二つ目のキーワードが出てきました。三つ目のキーワードとなるのは、(物語と書き手において)固有のものということでしょう。物語において示される事物が現実の読み手が問題とする事物と交換可能というのは、言い換えると、普遍的な問題が誰しもが分かるような文章で示されているということを意味します。また物語において固有のもの(悩み、苦しみといった考えることを避けられないもの)という第三のキーワードは、恐らく書き手自身にとっても固有の悩みや苦しみであることが多いです。第四のキーワードにはその悩みや苦しみと云ったことを当て嵌めても良いでしょう。悩みや苦しみは、一種の愉楽な感情と違って誰も逃れることが出来ないからです。普遍性と個人の持つ固有の悩みや苦しみと云ったものは通常、『普遍対特殊(固有)』と云った対立する概念と考えられがちですが、実は物語がその対立するはずのものの間に橋を架けます。純文学の物語において普遍のものごと(『鼻』においては誰しもが持っているコンプレックスについて)と特殊なものごと(内供の鼻が他人よりも大きいこと)は謂わば上下の位置関係にあると云った方がより正確であると思います。ユングの深層心理の図を思い浮かべるのがてっとり早いです。はじめに、つまり一番上の層に書き手が描こうとしている固有の苦しみや悩みについての考えがあります。ユングで云えば、意識的な層の段階です。次にこの苦しみや悩みと云ったものを文章に置換して、物語の形へと変えていきます。これは意識あるいはそれよりも下の無意識の層の段階と仮定できるかもしれません。この時点では、物語はまだ書き手あるいは物語の人物が持つ固有の苦しみと悩みについて語った物語でしかない訳です。つまり読者固有の経験と書き手もしくは登場人物の固有の経験が物語の中でまだ上手く結びつかない段階です。悩みや苦しみといったものが文章によって他人まで届くほど深く掘り下げられていない。ところが、この物語が個人の内面を深く通過していくことによって、ある種の特異点を迎え、無意識ないし集合的無意識の層にまで到達するような物語が描かれたとき、その物語は他者にも理解し得るものとなり、書き手、登場人物個人の悩みと、読み手自身の悩みが初めて交換可能になります。云うなれば、書き手と読み手の間に物語が小径(パス)を作り上げる訳です。それが純文学の領域で行われていることなのではないかと、私としては思います。村上春樹さんが創作する際において「井戸に降りていく」という比喩を使われるのは、そういった意味を含んでいる気がします。
 普遍性。交換可能。物語において固有。悩み、苦しみといった考えることから逃れられないもの。この四つの鍵を組み合わせて、私の純文学の定義を造り上げるとするなら、以下のようになります。
 
"誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で語っている物語"
 
「誰にも理解されない物事」というのは、書き手個人や物語の人物がもっている固有の経験や考えを指します。それを「語っている」。この場合だと個人的な苦しみや悩みといった考えざるを得ないことについて、物語の形へ変えていくということです。しかしこのままの状態では、「書き手、もしくは登場人物にしか分からない物事について語られた物語」になってしまい、それは決して普遍性を持った物語とは云えず、書き手と読み手の間を繋ぐ梯子は途中で途切れています。恐らくその物語は完全に書き手の独り善がりのモノローグであり、そもそもそれを物語や小説と呼んで良いのかさえ不明です。 
 私はこのことを人に指摘されるまで、気が付きませんでした。誰にも分からない物事を自分だけが分かっている物語にすればいい、と思っている節が何処かにありました。元々、私が小説を書き始めたのは病棟の中で、何にもすることが出来ない場所で、せめて自分を何か表現することは出来ないかと考え、残っていたのがペンとノートだけだったので、それが私の執筆の原点でありました。良くも悪くも。云いたいことは山のようにありました。しかし、あなたの書いているものは小説ではなく、ただの自分語りだと云われたのは、そういったことを指摘する為だったというのが真意だと思います。実際、二年ほど前に書いた作品に対して、個人的な物事について書かれたもの、と仰る方も他におられました。ひとに読んで貰えるような工夫を、誰が読んでもちゃんと分かるような言葉で――少なくとも、自分だけが分かるような物語ではないように――作らなくてはそれはただの自己満足で終わってしまうのだということを教えていただいた気がします。誰にも理解されない物事、自分の苦しみや悩みといった個人的なものを、読み手の人生と「交換可能」なもの、それが誰しもが持っている普遍的なものへ、物語によってならしめること。小説というのは文学的な領域において行われる錬金術のように思えてなりません。
 
 誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で書ける作家になりたい。それが純文学作家になる、ということではないでしょうか。
 
 言葉の魔術を信じて。
 
 kazuma

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読書録:『書店主フィクリーのものがたり』

 今日は読書録を綴ろうと思う。前からやってみたいとは思っていて、その割には後回しにしてやらなかった。こういうものはタイミングの問題で、やりたいと思った時が、はじめる時なのだ。人生において何かが起こるのは(善いことも、悪いことも)、大抵は時機の問題なのだと思っている。それくらいで丁度良いんじゃないかな、と。この本に出てくる或る警官の受け売り文句です。
 
 今回取り上げるのは、ガブリエル・ゼヴィン著『書店主フィクリーのものがたり』。先日、某新古書店にて一馬書房仕入れを行っていたところ、皆大好き早川文庫(海外翻訳小説)の棚に、この物語が収まっているのを見つけました。いや、内容は全く知らなかったんですけどね汗 それでも書店で目に留まる背表紙のものには必ず意味がある、というのが本好きの間での定説です。まだ新しいカバー装丁で、状態も悪くなく、帯には2016年度の翻訳小説部門・本屋大賞第一位の文字が踊っています。
 
 

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 最初の数頁を読んでみると、気難し屋の古書店店主の元を尋ねる出版営業のヒロイン、アメリアの描写で幕を開けます。主人公フィクリーは島でひとつしかないアイランド・ブックスの店主で、彼はやって来たアメリアに片っ端から難癖を付けて追い返します。アメリアがうちの出版物のどこが気に入らないのか、あなたは何が好みなのかと尋ねると彼は機関銃のように自分の嫌いな小説を羅列します。
 
「お好み」彼は嫌悪を込めてくりかえす。「お好みでないものをあげるというのはどう? お好みでないものは、ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム。おそらくは才気走った定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵――基本的にはあらゆる種類の小細工。ホロコーストとか、その他の主な世界的悲劇を描いた文学作品は好まない――こういうものはノンフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風というジャンルのマッシュ・アップは好まない。文学は文学であるべきで(以下、省略)」
 

 

 
 とまあこんな具合に読書のストライク・ゾーンの狭すぎる堅物店主フィクリーに思わず笑ってしまいました。因みに上記の引用部は延々と続きます。実はこの店主の好みが、物語の鍵を担っているということにはあとで気付きます。
 
 彼が嫌いな小説の種類をリストアップしている中に、『四百頁以上のもの、百五十頁以下のものはいかなるものも好まない』ということがさらりと述べてあります。彼が好むのは短編小説で、それを極めることが出来れば文学を極めることと同じなんだ、という発言をするくらいの短編小説への入れ込みようです。この本は章立てが一枚の扉絵とともにはじまり、各章のタイトルは現実に存在する本の題名と同じになっています。例えば、『リッツくらい大きなダイヤモンド』(フィッツジェラルド)、『善人はなかなかいない』(フラナリー・オコナー)、『父親との会話』(グレイス・ペイリー)などなど。
 
 そこには主人公であるA・J・F(フィクリー)のコメントが書かれてあります。どうも各章の題に使われている小説と、章の内容が対応しているようなのです。更に、扉絵に載せられている小説を全てピックアップしてグーグルで調べてみると、全て短編小説であるという、手の入れようには脱帽でした。著者は相当な本好きであることに間違いありません。フィクリーはこのコメントを誰かの為に書いています。
 
 物語は、妻を事故で失ったり、莫大な価値を持つポーの稀覯本が棚から盗まれたり、店に勝手に子どもを置いて行かれたりと散々な目に遭うフィクリーが、知らぬ間に謎の中に巻き込まれていく、というお話。迷わずに買って正解でした。蓋を開けてみれば、本屋大賞一位も納得の出来。翻訳調の文章と海外ドラマ風の雰囲気(著者はシナリオ・ライターの経験があるようです)には多少癖がありますが、それでも物語の面白さは少しも減じられていません。思わずふっと笑ってしまうような文章の連なりです。読み終えて本を閉じた時、自然と笑みがこぼれていました。
 
 『書店主フィクリーのものがたり』の主なテーマは、ある地点では明らかに不運と見える出来事が、あとの地点になると幸運だったということが分かる、ということだと私は思います。書店主フィクリーの人生は誰がどう見ても散々なことばかりです。妻に先立たれ、本は盗まれ、店に勝手に子どもを置いて行かれる。でも彼はその不運と引き換えに別の幸運を手に入れることになるのです。本人はその引き換えを知らずにやっていることに気付きません。完全に成り行きです。でも、現実の私たちの人生もそんなものではないでしょうか。
 
 不運な出来事というものは誰にも選ぶことが出来ません。ある日、突然フィクリーみたいに謎の中に巻き込まれてしまうことだってあるのです。しかし彼はその不運に見舞われたと思われる出来事の中でも、やっぱり本を信じて生きていく。実はこの物語の主要な人物達は、神様を信じていない、という点が隠されたテーマの中にあるようです。運命なんかちっとも信じていないように振る舞いながら、彼らは変えることの出来ない出来事の中で、もがきます。私がこの物語に惹かれたのは、もしかしたらその部分が一番大きかったのかも知れません。何となく読みながらそのことを感じていました。矛盾の中に引き裂かれながら、それでも日々を続けていく登場人物達の人生に。
 
 アメリアは終章でこんなことを述べています。
 
『私はアイランド・ブックスを心から愛している。私は神を信じない。信奉する宗教もない。だが私にとってこの書店は、この世で私が知っている教会に近いものだ。ここは聖地である。アメリア・ローマン』
 
 もし神様が人間に不運な出来事を与えるのだとしても、その出来事を簡単に投げ出してはいけない。神様が与えた不運よりも、私たちは人間の書いた本の言葉を信じている。そうすればいつか不運な出来事は、巡り巡って幸運へと換わる瞬間が訪れる。著者が云いたかったことは、そんなことだったのかもしれないと、隣に置いた本を見ながら思っている。
 
kazuma