虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

執筆グループ『空閑』の件につきまして

 三月に立ち上げた執筆グループ『空閑』について、お話しておきます。私が執筆グループから降りることについて、グループ内で簡潔な説明はしましたが、経緯や理由がよく呑み込めない、という方が内外にいらっしゃるかと思いますので、グループから去る前に、ここでひとこと事情を申し上げておきます。何にも云わないままに、自分で立ち上げたグループから離れるのはフェアなことではないと思うので。
 
 一連の事が終わって、冷静に振り返れば、些細なすれ違いや意見の誤解に過ぎなかったのではないかと思います。私がグループから身を退くのは、結果的に、意見の相違のあったひとりのメンバーを退出させる形になってしまい、その上、発言内容への誤解から、一番信頼していたメンバーから離脱を申し出られたからです。退出したメンバーに非はありません。私の方にグループとしてやっていく意識の上で問題があったと思います。他のメンバーを退出させておきながら、自分がグループに残るのは筋の通らない話だと考えていました。
 
 もともとこのグループを立ち上げたのは、Twitter上で以前から親交があった数名のメンバーと小説について話が出来る場はないだろうか、と話していたことがきっかけです。私の方でも執筆グループを作ってみたいという考えは、一年以上前から暖めていたものでした。私は最も信頼しているメンバーのひとりであるabejunichiさんに話を持ち掛け、二人でグループをはじめました。その後、Twitter上で親交があった方を中心にお声掛けをし、当ブログでも募集をしました。
 
 最終的にメンバーは十六名となり、この中には以前からTwitter上などで私と個人的に親交があったメンバーと、今回の募集で初めて知り合うことになったメンバーがいました。書いている目的も、年代・性別も、このグループに参加する理由も、それぞれが多種多様であったと思います。今回のグループを、元から親交があるメンバーのみの場にするか、それとも小説を好きな人なら誰でも参加できる場にするか、率直なところ迷っていました。
 
 オープンな場にしたことが正しかったのかどうか分かりませんが、参加してくださったメンバーのコメントやツイートを読んでいると、いままで知らなかったメンバーの横のつながりが出来たこと、出会うことのなかった作品と作り手に出会うことが出来たという意見があり、その点は良かったのかなと思います。
 
 一方で、お互いに殆ど面識がないことで、ものの考え方や小説に対する考えが明らかに違うメンバーも居て、それがSlackというスペースで、ある意味では常時繋がっているような状態が、息苦しく感じていたところが、正直に云ってありました。考え方や意見の相違自体は互いの立場を認める必要があるかと思いますが、人間としての情の部分で、同じグループでやっていくのが辛いなと思うことがあり、何度かSlackのグループを開くのが億劫に感じたことがあります。これは私のひととしての気質の部分でもあり、その違いを織り込み済みで呑んだ上で、グループとしてやっていくことが出来なかったことが、管理者として失格、という発言の真意です。
 
 またグループの管理者についての意見は、退出したメンバーを含め、ご参加いただいている方と、私の考えが違ったのだと思います。この執筆グループに参加してくださった方々の内、多くの方は、純粋に小説について話が出来る場を必要としていたのであって、そのグループを立ち上げる人間は特に私である必要は無かった、ということを何となくですが感じていました。昔から親交のあったメンバーや、話をしてみたかった何人かの方と、この場であまりお話しできなかったことが、私としては心残りです。主に発言するメンバーに偏りがあったことも気がかりでした。一時期、コメントしにくい状況になっていた方もいらっしゃったようです。
 
 一昨日、解散を一方的に告げたのは、退室したメンバーと個人的な話をした直後で、感情的になっていたところも多くありました。私は当初から意見があまり合わなかった、ひとりのメンバーに対して、グループ内にて、どちらが優れているのかということを議論し合うつもりなら出て行ってもらいたい、という発言をしましたが、それがabeさんに向けたものと誤解されてしまい、結果的に一番最初に参加していたabeさんが退室されてしまった。信頼していた最初のメンバーを喪って、お話ししてみたかった方ともあまり話が出来なかったり、意見の違うひとと合わせて、自分の返答を考えていると、何の為にこのグループを作ったのかな、と哀しくなることが何度かありました。勿論、話していて楽しかったことも一杯あったのですけれど。
 
 Slackというある種の閉鎖的なグループの特性もあったと思います。十六人も人間がいれば、合う合わないがあるのは当然で、一つの場に押し込められたら、距離感が掴めなくなって、ぶつかり合うことも必然的に出てくるし、互いに合わない意見があっても、通知が来たり、開いたりすれば厭でも眼にしてしまう。もっと広々とした、本当に出入り自由な場、行きたかったら行けばいいし、行きたくなかったら行かなくてもいいような場に出来れば良かったのですが、オンラインの特性もあって、中々それは、難しかったです。繋がり過ぎている、ということに慣れているひともいれば、そうでないひともいて、私は後者の人間であったということです。そういう加減が分からない人間がSlackでグループを立ち上げるべきではなかったと、深く反省しています。
 
 グループに関しては、継続を望まれる方の声もあり、スペースを残す方向で調整が進められています。管理人権限を譲渡しない限り、私はSlackのグループからシステム上、退室することが出来ませんので、グループ内で、管理人を仮に複数人立てたら良いのではないか、と発言いたしました。いまは、今後のグループの管理者の立候補期間となっており、二名の方に立候補いただいております。もし今後執筆グループを引き継いでもよいという方が、残るメンバーの中でおられましたら、是非よろしくお願いいたします。引き継ぎが完了するまでは、グループスペースをオープンにしておきますし、私自身も残ります。出来る限りのサポートはいたします。
 
 今回の件で、ご参加いただいていたメンバーの方、またグループに興味を持ってくださっていた方々に多大な迷惑を掛け、誠に申し訳ありません。本当はこういう事情を詳しく説明できる心境ではありませんでしたが、Twitter上でグループに興味を持っていて説明を求められる方もおられ、何よりも一番、グループに参加してくださった方にちゃんと理由を云っておきたくて、このような記事を書かせていただきました。
 
 短い間でしたが、皆さんと小説のお話が出来て良かったです。Twitterやこちらのブログでの活動は細々と続けて参りますので、これからもまだ個人的な交流なら続けてもいいよ、という方がおられましたら、変わらずお付き合いくだされば、嬉しく思います。これは個人的な返信となりますが、退出された靉さんには大変申し訳なく思っています。Slackというグループの場でなければ、お話しできたことも沢山あっただろうなと思います。abeさんにも誤解を招くような不用意な発言の仕方をしてしまったことを、ここで深くお詫びいたします。
 
またいつか時間が経って、皆さんと何処かで笑って話が出来ることを願っております。誠に勝手ではありますが、今後の執筆グループ『空閑』を、よろしくお願いいたします。
 
kazuma

春の鴉

 四月になった。これで二十余回の春が来たことになるけれど、未だに人生に春が来た試しはない。いつも桜が散っていくのを他人事みたいに見つめていた。公園を横切ると楽しそうに宴会で騒いでいる人たちを見ながら自分には一生縁がないだろうなと思いながら素通りする。誰とも言葉を交わさずに見た景色ばかりを覚えている。桜は綺麗だと思うけれど、誰かと笑って見た記憶は一切無い。そういう性分に生まれついたのだから仕方がない。世の中は明るく生まれついた人間だけで出来ている訳ではないのだ。私は桜を見て笑っている人間よりも、すたすたと路を歩いて行ってしまう人の方が好きだ。背を向けて去る人間の足音は、切実な響きを持って、何処へ行ってしまうか分からないような当て処なさを隠している。桜の木の下で酒を呑んでいるひとに、その人間の足音は聞こえない。俯いて歩けば、哀しみが唄って眩暈がする。嘯いたような春の風が吹いても、すれっからしの心は根無し草のまま、何処吹く風、とそっぽを向く。つくづく、どうして自分は人間に生まれついたのかが、分からない。桜の枝の上をとんとんと歩く鴉が花を散らす。黒い翼から一枚の羽根が抜け落ちて、私はそれを拾う。『我はもと虚無の鴉』と鞄の中の詩人が云った。ほんとうの桜の色が誰に見えるだろう。何年経っても、私は鴉の羽根ばかりを拾って生きていく気がする。鴉の羽根が全て抜け落ちる頃に、桜の樹の下で一眠りをしたい。そこで初めて桜を誰かと笑って見上げる気になれるだろう。今日も路地裏をひとりで歩く。排水溝に落ちた桜の泪の色だけを、私はじっと見つめている。このまま俯いているのも悪くはない、と先を歩く影が云った。桜の雨が降る。薄桃色の雨粒に濡れたら、散る桜の哀しみがわかるだろうか。ひとりぼっちで歩いた路を振り返った時に、同じ色を見ていたひとが、そこに立っていたのなら。私はそのひととだけ、笑って話をするだろう。桜の樹の下で、鴉の羽根を胸一杯に抱えながら。
 
kazuma
 

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オンライン執筆グループ、『空閑』がスタートしました。

 こんばんは、kazumaです。新潮新人賞の原稿執筆の為に、長いこと潜っておりましたが、目処が付きましたので、ブログに戻って参りました。今日は、前回の記事でお伝えした執筆グループについてのご報告です。
 
 二週間ほど前から募集を行っている、オンライン上での執筆グループですが、多くの方に、ツイートや記事を見たよ、と仰っていただいて、嬉しい限りでした。現在は、私含め16名のメンバーが、執筆グループ『空閑』に参加しています。『Slack』というオンライン・ワーキングスペースを使用し、現在進行形でゆるゆると活動しています。グループスペースは、オンラインチャットと掲示板を足して二で割ったようなもので、主にメンバー同士の交流の為に使っています。自作小説を読み合って意見交換をしたり、原稿の進捗を互いに励まし合ったり、談話室で雑談をしたり、と自由にマイペースな感じでやっています。
 
 一応、執筆グループを立ち上げる為に、最初の段階で色んな方にお声掛けをしましたが、私は一参加者としてグループに参加する形で、運営者は参加しているメンバー全員ということでやっています。割とフラットに、色んなジャンルを書いている方がいて、年代・性別、執筆環境や目的もばらけた感じで集まっていますが、だからこそ学ぶものがあるし、皆やっぱり小説が好きだ、というその一点で繋がっているんだなということは、強く感じます。
 
 グループ名は『空閑』と書いて『ソラシズ』と読みます。執筆グループの名前を募集した時に、メンバーのある方がこの名前を提案してくれました。閑な時間に集まって小説の話が出来る『空閑』(くうかん、とも読めます)というダブル・ミーニングも相まって、メンバーの満場一致で決定しました。自分じゃ百パーセント思いつきようのないグループ名でしたので、考えていただけて良かったなあ、と純粋に思います。『空閑(ソラシズ)』という名前を覚えて貰えれば幸いです。
 
 まだ生まれたばかりの『空閑』ですが、これから徐々に、息の長い活動になってくれれば良いなと思っています。メンバーは随時募集しておりますので、グループにご興味のある方は@kazumanovelまでご連絡ください。小説が好きで、話し合ったりしてみたいという方なら誰でもご参加いただけます。好きなときだけ、Slackのグループ・スペースを覗いたり、書き込んだりできますので、気軽に入っていただけますよ。
 
 この前、グループ内でこんな話がふっと出ました。グループの中から文学賞の受賞者が出たら、夢みたいですね、と。メンバー全員が文学賞に向けて書いている訳ではないですし、小説を書く理由というものは、ほんとに人それぞれなんですが、その話を聞いた時、いつかそれが夢の話ではなくなればいい、と思いました。何年掛かったとしても、私は(あるいは、私たちは)小説家になりたくて書いてきたし、同じ思いで書いてきたことのある人たちがこの網の目の上にはいて、互いに切磋琢磨し合いながら、それぞれの望む文章の道に進んでいくことが出来ればと思って、立ち上げた、というのが本音なので。
 
 誰だって、いまの文章のままで立ち止まっていたくなくて、物語に見合う言葉を、森の中を必死で駆け抜けるように探している。森の中で、言葉の樹に生った林檎をこの手に掴んで味わいたい、というひともいれば、それを唆す蛇を自らの裡に飼おうとするひともいる。あるいはただ、森を越えた頭上の空を旋回する鴉を見上げるひともいるかもしれない。地面に落ちた団栗を綺麗だと思って無くさないように拾う人もいる。小説を書き続けて、その森の茂みから抜け出す頃には、皆が思い思いのものを抱えていて、それぞれの森を抜けていく。振り返ったときに、私たちには私たちだけの足跡が――、物語が見える。森の中に自ら迷い込むように足を踏み入れるのは勇気がいるし、森の外にいる人間には決して分からない孤独がある。単独行で物語の中へと突き進んでいくのが、ものを書くという勇気であることに違いは無い。けれども、言葉の森というものは、実は皆、何処かで繋がっているものだから、誰かが声を上げたら、ちゃんと声は返ってくる。時に道が交わって出会うこともある。言葉の森の中に居るのは自分だけじゃないと分かったら、ひとりぼっちで歩いている訳じゃないと分かったら、もっと森の中に深く入り込んで行けるかもしれない。自分では全く気が付かなかった道が、遠くの誰かの一声によって現れるかもしれない。その道の先にある文学は、自分一人では決して辿り着きようのなかったところへ、連れて行くように思えます。その先には別世界へと続く扉の門が聳えている。誰もがその虚構の門を叩いて開く為に、書くことを望むのだから。扉の先にあるものを、この眼で見ようとして。
 
言葉の茂みに隠された、誰の足跡もない深い森の中へ。
 
kazuma
 
追伸:新潮新人賞原稿の初稿が、原稿用紙換算117枚で完成を見ました。推敲の後、滑り込みで提出予定です。ようやく終わって、一息付けました。これから動いていくことが沢山あって、この一年を抜けた先には何があるだろうと、思っています。
 

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近々、オンライン上で執筆グループを立ち上げます。

 こんばんは、kazumaです。今日はお伝えしたいことがありまして、記事を書いています。表題の通り、オンライン上で執筆グループを立ち上げたいと思っています。これはずっと昔から暖めていたことで、中々実現出来なかったのですが、案ずるより産むが易し、ということで、これ以上待っていても仕方ないと判断し、取り敢えず動いてみることにしました。
 何度かこの件に関わることは、ブログでも取り上げてみたり、Twitterでも発言してきました。小説について語り合える執筆仲間や場所を探している、ということを記事に書いたり、ツイートしたりすると、何人かの方が反応してくださって、同じような思いを持っている方はいらっしゃるんだな、という手応えはありました。一対一の関係で、メールやTwitterで、小説についてやりとりする中で、自分では思いも寄らなかった点に話が進み、こんなことを考えていたのかということが分かったり(逆に分かっていないことが分かったり)、ある時は単なる執筆の話を越えた、身の上話まで、ご相談させていただいたこともあります。このオンラインの網の上に、偶然紡がれることになった言葉に何度も助けられた経験があるので、そんな言葉のやりとりがもっと広がったり、深くなったりすればいい、と個人的に思っていました。何処にも行き場のなかった、小説が好きなだけの自分に、声を掛けて話をしてくださった人たちが、確かにこの網の向こう側にはいるのだ、ということが分かっていたから。
 ものを書く人間は、基本的には孤独な人間だと思います。小説を書くという行為は徹頭徹尾、書き手ひとりが行うもので、その行為には誰も介在する余地はありません。一字一字を、自分のイマジネーションと語りによって詰めていく作業には、通常の生活では感じることのない種の苦しみと、それを越えていくことで広がっていく物語の喜びとがあります。私たち書き手は、執筆に行き詰まっては苦しみ、誰かに語ることを求めたり、あるいは書き上げたことに対する喜びや、琴線に触れた物語を分かち合いたいと思うことがあります。ただその相手は、思ったほど身近にはいなかったりする。
 書き手と云ってもペンとノートとタイピングから離れれば、やはりひとりの人間であって、そういう執筆から離れた時には、孤独であるという、執筆中には普通であったそのことによって息苦しい感じがしたりします。書くことの孤独と、ひととしての孤独はまた少し意味が違うのではないかなと思っています。なのでもし、そういう閉塞感や小説について話す場が何処にもない、と感じている方がもしいらっしゃるのであれば、お互いに好きな小説の話でもして、互いに刺激し合いながら、書いてみませんか、ということです。
 私自身、オンライン上で誰とも話をしなかったとすれば、いま書いている小説の形は、なかったのではないかなと思っているので。
 ほんとは小説を書いている人の方が、誰かと関わったりすることを求めていたり、必要としていたりすると思うんです。だって、普通の人よりも孤独である時間は必然的に長いし、そういうことに向いている人間が小説を書く訳ですから。でも、物語を書くということは誰かに向かって伝えたいことがあるから、伝えなければならないことがあるから、書いているひとが多いので、何かしら語りたいことはきっとあると思うのです。 
 私の場合は、現実では云えなかったり、言葉に上手く出来なかったりしたことを、物語に託しているところがあります。孤独であることが随分長かったし、いまでもそうです。だからもし、そんな風に現実の何処にも自分の居場所がないように思えたりしていて、小説というこの『虚構世界』の中で生きていたいな、と思うようなひとにこそ、是非この執筆グループに参加して貰えれば嬉しく思います。もちろん、社交的で小説が好きだという方も大歓迎です笑
 オンライン執筆グループの運営拠点としてはSlackというオンラインサービスを利用して活動していこうと思います。書き込みやチャットなどのサービスが無料で利用できるところで、昔のネット黎明期によくあった『談話室』や掲示板みたいなものです笑 そこで、小説について話たいことがあれば、自由に書き込んで、誰かが反応してお話していくという感じです。いまのところは、Twitter上での私のお知り合いの方が参加されています。既にご連絡いただいている方には、順を追ってご招待メールをお送りします。参加されたい方は、メールアドレスだけご用意ください。
 基本的には、Twitterのアカウント(@kazumanovel)、このブログのコメント欄、あるいは知っている方は私のメールアドレスまで、どんな手段でも結構ですので、ご連絡いただければご参加可能です。今のところは、取り敢えず人に集まっていただいているだけなんですが汗 徐々にゆるゆる活動していこうと思っています。まだ正式な立ち上げではなく仮メンバー募集と云った感じで、様子を見ながらやっていきます。参加も退室も自由ですので、お気軽にご連絡ください。お待ちしております。
 
kazuma
 

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(※写真はイメージです笑 photo by :写真AC)

『展望』

 時々、ひとりで文章をせっせと書き続けていると、もがいても足掻いても前に進むことの出来ない沼地に、露とも知らぬ間に足を踏み入れてしまっているのではないか、と思うことがある。沼の向こう側には見惚れるほど綺麗な水の流れる沢があって、そこばかりに眼を向けて歩いていたら、足下に気が付かなかった。振り返れば、かつてあった安定した土塁は側になく、足を抜くには深入りし過ぎている。遠くに流れる水の美しさだけが、いまも眼の底で煌めく火を灯すように輝いている。
 
 プロの作家を目指す、と書き始めた頃は何の恐れもなく口にした。崖から飛び降りる怖さを知らない『愚者』と同じく。このブログで公言しているように、勿論、その目標が他のものに代えられる訳はない。文章を書く人間や、何かを表現していこうとするひとは、何処かしら清水の舞台から飛び降りるような蛮勇を胸の裡に囲っていなくてはならないと思う。でも、その恐れ知らずの勇気だけでは、プロの文筆家にはなれないのだと云うことが、挫折と批判と冷たい社会の眼を通して、徐々に分かってくる。私には筆以外には何もないのだから、折る筆もないのだけれど、人の居ない山岳を単独行で登っていこうとする種類の辛さが、文章を書く中には確かに存在している。誰も通ったことの無い道を自ら進んで通っていけるもの。新しく生まれてくる文学には、そうした前提が必要なのだと思う。私はまだ先人の足で踏み慣らされた轍の前で、足踏みして居る。誰も通ったことのない、自分だけが知っている道が、見つからない。
 
 昨年十月末に応募した、第六十一回群像新人文学賞の最終選考通知はなかった。例年、二月中には連絡があるというのが公募界隈での定説であるから、選考の発表期間のことを鑑みても、最終選考には今回も残らなかった、と考えるのが妥当だ。読んだ人に徹底的に酷評された作品でもあったので、通るのは苦しいだろうと見ていたが、その通りになった。これを挫折と呼ぶのかは分からないが、七、八回と落選を繰り返すと感覚は徐々に麻痺してくる。落胆はしている、面と向かってお前には文を書く才能がない、と云われているようなものだから。作品を目の前でびりびりに破られることと同じだ。やり口がスマートになっただけのことだ。今頃、送った原稿は、何処かのゴミ箱に丸ごと入れられて、遠くの焼却場で恙なく焼かれて灰になっているだろう。
 
 何百回と本を読んでも小説というものが分からない。何十万字と文字を書いても、言葉が自分だけが表現しうる言葉にならない。月並み。云わんとしていることが、云えない。その内、云おうとしていたことが何だったかも、分からなくなってくる。ある人は、長い時間を掛けて小説がようやく分かった、という。自分にはどれだけ時間を掛けても小説というものが分かる気がまるでしない、生まれついた頭が悪かったんだろうか。
 時々、自分がどうして書いているのかが、発作的に分からなくなる時がある。小説家、と言う誰しもが知っている肩書きが欲しかった? 得られる賞金と、文筆家としての未来が? それによって手に入れられる新しい生活が? ――そんなものの為に、文章を書いているのだとしたら、それらを文章で手に入れようとする必然なんて何処にもなかった。普通に社会に出て、働いて、サラリーマンの肩書きを得て、堂々と社会で戦って手に入れれば良かったのだ。自分はそうはしなかった。社会から背を向け、溝板を這いずる鼠のようにのたうち回り、病を引き摺ったまま、書いてきた。出来なかった、という理由も少なからずあっただろうけれど、それ以上に、この袋小路に見える細い細い路に進んだのは、何処かできっと自分が選んできたからだ。このしみったれたような孤独の日々は、行き止まりの壁を思い切り蹴破るまで、どうすることも出来やしない。ただ現実を粛々と受け容れて、怖くても筆と共に進んでいくことの他に、路なんて最初からないのだ。
 
 新潮新人賞向けの原稿は、十二末から筆を執り始めてようやく六十枚を超えてきたところだ。筆が突然進まなくなることがあり、そういう時に本当に逃げ出したくなるような気持ちになる。けれども机から背を向けるようになったら、本当にお終いだとは誰が云わずとも分かる。年月が徐々に真綿で首を絞めるように迫ってくる。駄目になった原稿の束が積み重なる。生活はちっとも楽にはならない。相も変わらず病に苦しめられることに変わりは無い。そういう一切のものを代償としてよい、換わりに自分だけの言葉が欲しい。それが本当に見つかるのなら――、それを手に入れる為だけに、私は沢山のものを諦めて、掌で大事に握り締めようとしたものを、路端の排水溝に片っ端から擲ってきたのだから。
 
 苦しみと引き換えに、同じだけの言葉を。
 
 kazuma
 
 近況報告:再就業が決まりました。古本関係の仕事です。古本の仕事と個人でやっている一馬書房で最低限の糊口を凌ぎながら、何とか文章の道で生きていけるようになろうと、いまも、もがいています。同じように苦しみながら小説を書くひとと、共に目指す路を歩むことが出来ればと、思いながら。

 

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上記写真:筆者撮影。夕焼け色に染まる河。綺麗だと思った。河は昔から好きだ、何故かは分からないけれど)