虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

春の鴉

 四月になった。これで二十余回の春が来たことになるけれど、未だに人生に春が来た試しはない。いつも桜が散っていくのを他人事みたいに見つめていた。公園を横切ると楽しそうに宴会で騒いでいる人たちを見ながら自分には一生縁がないだろうなと思いながら素通りする。誰とも言葉を交わさずに見た景色ばかりを覚えている。桜は綺麗だと思うけれど、誰かと笑って見た記憶は一切無い。そういう性分に生まれついたのだから仕方がない。世の中は明るく生まれついた人間だけで出来ている訳ではないのだ。私は桜を見て笑っている人間よりも、すたすたと路を歩いて行ってしまう人の方が好きだ。背を向けて去る人間の足音は、切実な響きを持って、何処へ行ってしまうか分からないような当て処なさを隠している。桜の木の下で酒を呑んでいるひとに、その人間の足音は聞こえない。俯いて歩けば、哀しみが唄って眩暈がする。嘯いたような春の風が吹いても、すれっからしの心は根無し草のまま、何処吹く風、とそっぽを向く。つくづく、どうして自分は人間に生まれついたのかが、分からない。桜の枝の上をとんとんと歩く鴉が花を散らす。黒い翼から一枚の羽根が抜け落ちて、私はそれを拾う。『我はもと虚無の鴉』と鞄の中の詩人が云った。ほんとうの桜の色が誰に見えるだろう。何年経っても、私は鴉の羽根ばかりを拾って生きていく気がする。鴉の羽根が全て抜け落ちる頃に、桜の樹の下で一眠りをしたい。そこで初めて桜を誰かと笑って見上げる気になれるだろう。今日も路地裏をひとりで歩く。排水溝に落ちた桜の泪の色だけを、私はじっと見つめている。このまま俯いているのも悪くはない、と先を歩く影が云った。桜の雨が降る。薄桃色の雨粒に濡れたら、散る桜の哀しみがわかるだろうか。ひとりぼっちで歩いた路を振り返った時に、同じ色を見ていたひとが、そこに立っていたのなら。私はそのひととだけ、笑って話をするだろう。桜の樹の下で、鴉の羽根を胸一杯に抱えながら。
 
kazuma
 

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