虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

現状と展望

 いまの自分の状況と頭の中身を整理したいので、書く。読むひとにとっては、kazumaの近況報告と受け取ってもらって構わない。一応、死なない程度には、生きている。近頃はいつもそんな感じだ。取り敢えず、生活が出来て、本が読めて、小説が書ければ、特に何の問題もない。人生の座標を絞ることにした。自分にコントロールできない範囲で起こる出来事に関しては、潔く諦めて流れに身を任せることにする。ただ自分にも変えることが出来るもの、自分の領域の中にある小説に関わるものだけは、何があろうと誰にも譲るつもりは全くない。
 
 まずは、生活のこと。昨年の年末から再就職に向けて動いていた。去年の十月から古書店『一馬書房』をはじめてみたのだけれど、二ヶ月ほど経って、明白に分かったことがひとつ。いまの自分の力量と体制では、古本屋一本で食べていく為にはハードルが高すぎるということ。勿論、何事も始めるときには厳しいものだけれど、これは生活に関わることだから悠長なことは言っていられない。とはいえ、古本の仕事そのものに関わり続けることは既に決めているので、一馬書房は継続しつつ、最低限度の定収入を得るために、古本に関わる別の仕事に就きたいと思っていた。
 
 ハローワークに何度も足を運んだ。最初の相談窓口にいたひとは「古本ねえ……」と暗にそんな求人はないことを態度で告げていたが、どうでもよい。ハローワークに足を運ぶ前に、事前に何十回も古本屋の求人に検索を掛けていた。年末年始は、ほぼ毎日のように探していて、クリスマスの翌日に浮ついた街を抜け、面白くもなんともない顔をして求人検索のパソコンの前に座っていたことを覚えている。相談員が示したことは事実で、古書店や古本屋の求人はほぼ存在しなかった。何度、グーグルの検索窓に打ち込んでも、求人サイトを巡回しても、ハローワークのパソコンを叩いても、出てくるのは東京のような遠方のもので、私が家から通うことのできる条件に適った求人は無かった。おまけに、私は自分の病に一定の理解がある就業場所を求めていた。前職と前々職では、病を隠したまま働いた。働きながら、自分が無理をしていることが分かっていた。仕事とはそういうものなのだろうけれど、合わないことは続かないことをずっと前に知っている。幸い、周囲のひとに恵まれたおかげで何とか抜けてきた。だが、今度は無理なく続けられるような場所で本に関わる仕事をしたかった。
 
 偶然、ある求人が検索に引っかかった。調べてみると、古本に関わる仕事で、通うことの出来る範囲内にあり、一般的な求人ではないけれど、それは私が探している条件を全て満たしていた。それから別の相談窓口から連絡を取っていただき、その就業場に見学にも向かった。きっとここだったら、という思いがあった。いまは就業のための手続きを行っている。おそらくそこで働くことになるように思う。何もかもを諦めるのは全部やってからだ。
 
 小説に関しては、いま新しい作品の執筆に手を染めたところだ。以前のものとは全く形式も内容も違うものが造りたかった。一人称の自分語りの系譜は、前作のもので一旦終わりにした。この小説は読み手のことを考えていない、とはっきり見抜いたひとがいて、殆ど自分のためだけに書いてきた小説の土台そのものから考え直すことになった。 
 自分の過ちのせいでその方とは疎遠になってしまったのだけれど、言葉のやりとりがもしなかったとしたら、自分は未だにエゴの塊のような小説を延々と膨らませ続けることになったと思う。いまは三人称で頭上から物語の出来事を見通すように、地上の『私』から一歩離れた視点で書くことを目指している。自分の為だけに書いた小説ではなく、読み手のひとに確かに届く言葉を探している。そして物語の登場人物や情景やストーリーが、淀みなく流れる為の言葉を連ねようと思っている。
 
 書き手とは、その虚構である物語と現実世界にいる読み手との繋ぎ手であって、一種の導管のようなものであり、その役割に徹することを命題として、いまは文章に向かっている。今度、造り上げるものこそ、ただのお話ではなくて、小説として認められるものを、という思いで。
 
 読書については最近は乱読している。読みかけの本が部屋中に散らばっていて、三十枚入りの栞を買って、片っ端から挟んでいる。書けば書くほど、自分の読書量の少なさに気付く。ともかく圧倒的に足りていないので、意識的にやっている。意識してやらないとプロに手が届くところまで全く追いつかない。読書は時間をかなり喰う行為ではあるけれど、それを気にしてやるものじゃない。集中して読んでいる間は現実のことなどまるっきり忘れている、部屋を出て街の空気を吸うと、外側の現実世界の方が私にとっては違和感を含むもので、都会のビル前の横断歩道を歩いている自分とはいったい何なのだろうかと不思議に思えて仕方が無い。文字を追っている時の方が素の自分である気がする、という転倒を迎えているが、そのくらいが物書きには相応しいはずだ。
 
 最終的に、私の人生はちゃんとしたひとつの小説を書く為にあるのだと思う。その滑走路が現実であって、小説を書くために現実が必要なら、いくらでも利用するし、必要とあれば現実の側の土台を整えることで、虚構を生み出す為の力とする。結局、両者は書き手にとっては繋がっているものなのだから、現実の生活をしっかり安定させることも、虚構を生み出すためには必要であるし、虚構の充実が、最期に還元された先にある現実にも必要であるのだと思う。そしてその導管の火花を切らさないように、言葉をノートに書きつけている。
 
 新しい小説のためのツバメノート、ポメラDM200、一太郎2017も購入した。本棚には自分が必要としている小説が並んでいる。執筆のための最高の環境を、自分の働いたお金で揃えた。誰にも文句なんか言わせない。
 
 今後の個人的な展望だけれども、物語を書くひとたちが繋がれる場が作れないかと思っている。書き手は個人ひとりで完結するものであるし、最終的にはもちろんそうなのだけど、互いに影響を与え合う中で学ぶものがあると思う。自分一人で閉じた世界の中にいては見えないものがあることを教えてくれたひとが、かつていた。いますぐにという話ではないけれど、いずれは現実の形にしたい。Twitterでも時々言及したり、同じ意見を持っているひとがいくらかいることを知っている。賛同してくれるひとが、この文章を読むひとの中にもいることを願っている。
 
 長くなったので、今日はここでおしまい。また。
 
 kazuma
 

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