道化師の文学
kazumaです。戻ってきました。インターネットとテキストの海に。この夏は欠落したものを埋めるピースを探していました。結果的に掌に残ったのはただの言葉の砂塵と欠落を抱えたままの凡庸な存在でした。何十回やっても夏は掴まえられませんでした。人間よりもトラックに踏み潰されて死んだ蝉に親近感が湧きました。人間であることが向いていない人間ほど滑稽な存在はありません。私はどうも滑稽な種類の人間のようです。どんなに願っても真っ当になれる気がしません。ひとに後ろ指を指されて笑われながら生きていくようです。
道化師は細い細い綱の上を、薄氷を踏むように毎日歩きます。ひとびとは何事もなく地に足を付けてコンクリートで舗装された道をしっかりと踏みしめて行きます。そうして時折、振り返ってはあんなにのろまな歩き方をする奴を見たことがない、さっさと綱から降りて普通に我々と同じように歩けばよいと云います。彼らは降りることが出来ない綱があるということが、分かりません。誰だって好き好んでそんな綱の上を歩いているわけではないのです。おかしくなりたくておかしくなる人間などいません。いたとしたらそれは漫才師か酔狂な人間です。おかしく見える人間は、一番真っ当であることを願った人間です。
虚構の中に真実が在るのか、分かりません。ただ活字以外に救われたことってなかったような気がします。誰かとの思い出だとか、ひとやあるいはそうでないものを信じたりすることで、救われるようなことは稀です。皆、最後には時間の白波や、黒い鴉のくちばしがかっさらって、訳の分からないところへ消えていきます。そこへ落ちたら、もう誰も戻ってくることはありません。誰も彼もが我先にとひとを裏切って、また別の誰かと繋がろうとします。そんなことを繰り返してまで、何かを手に入れようとするのは馬鹿げているような気がします。生まれなければよかった、と思うことはしょっちゅうです。生まれる前までのIFを遡るのは更に滑稽です。自分はひととは全く異なる目的の為に生まれているような気がします。
人並みの幸福さえ噛みしめることの出来ない人間はこの世にいます。そんな人間は虚構の神様だけを信じます。もし言葉の神様にさえ見放されたとしたら、もうその時が終わりでいいです。何の期待も後悔もありません。私は自分と同じ苦しみを背負った人に向かって書きます。それ以外に書く理由は見当たりません。作家になる目標だとか、生活のことだとか、ここまで来たら、どうでもいいことのように思えます。私はただ同じ哀しみを抱えて涙を流したひとの頬を言葉のハンカチで拭いてあげたかっただけです。昔の自分が出来なかったことを、何年も掛かってやろうとしているだけです。かつてそれを必要としていたときに、誰にもそうしてもらえなかったことを、やろうとしているだけです。他に信じているものは何もありません。幸福な人間に向かって書く物語はありません。彼らのための物語は世の中に腐るほど溢れています。不幸を背負わざるを得なかったひとに向かって、私は話をします。
うまく生きることが出来なかった、不器用なひとと向かい合うのが、私の文学です。それが世の中や賞といったものに認められなかろうが、そのひとたちへ向かって書き続けるだけです。その為になら、泥臭く生き延びてもいいように思います。
人間が偉大なる所以は、彼が目的にあらずして、橋梁たるにある。人間にして愛されうべき所以は、彼が一つの過渡たり、没落たるにある。
「われは夙に知っていた、――いつか悪魔が来たって、わが片足をすくうであろうことを。いま悪魔はわれを地獄へと牽き行く。之を妨げて呉れ――。」
『ツァラトストラかく語りき』フリードリヒ・ニーチェ
夢と七夕
お久しぶりです、kazumaです。潜ってました。文章の海に。
7月6日まで原稿執筆の為に、ブログから席を外しておりましたが(Twitterでは度々出没が確認されていたようです笑)、短編の雛形が、ひとつ出来上がりました。ただ、書き終えたとは到底云えないので、脱稿はまだまだ先になりそうです。今月中には短編としての完成を見たいですが。一応、形にはなっていると思いますので、これで文学学校のクラスに提出して、合評会で反応を見ようと思っています。取り敢えずはこれで一段落して、引き続き、書き続けていこうかなと。
文章を読みたいと云ってくださる方がTwitter上で何人かいらっしゃるので、その方々にもいつか読んで頂けるように、これからも書き続けていきます。ほんとうにいい意味でモチベーションになっています。また完成しましたら、ご希望の方にはご連絡を差し上げる予定です。『一馬書房』の方でも、何冊かお買い上げいただいた方に、オリジナル原稿を同封する企画をやろうかなと思っていますので、気になった方は時々チェックしてみてください(営業トーク)。
さて、近況ですが、最近は目標のタイムリミットが確実に近付いてきていることを感じます。このブログに記していたように2019年3月31日までに作家になることが元々の目標でした。正直に云って、途方もなく遠い夢を掲げたものだなと思います。目の前に見えている山の麓まで辿り着けそうだと思って、歩き始めたら、一向に距離は縮まらず、片脚は既に底なし沼に足を取られているような。勿論、期限までに作家になることが全てではなくて、リミットに間に合わなくとも、腹くくって書き続けることには変わりないんですが。きっと、ひとが一生の内に、ほんとうに夢だけを追っていられる時間って、そんなに多くの時間が許されている訳ではないんですね。でも、いま追わなかったら絶対に後悔するってことだけは、分かります。いつも人生の大事な時に、間違いばかりを選んできたから。小説のことだけは、誰が何と云おうと、自分で選んでやるって、それだけを19の時に、病棟の中で思っていました。あの時にもし小説がなかったら、自分はもうここには居なかったように思います。一線を越えなくて済んだのは何故だったのか、いまも分かりませんが、まだ生かされているのは、きっとまだやってないことがあるよって、誰かに云われているような気がします。倒れていた自分にもう一度息を吹き込んでくれたのは小説の中の言葉でした。
いまも作家になる夢を追っているのは、遠い昔の自分への約束と、それを守るための個人的な意地です。どれだけ現実に遠回りをすることになっても、ペン先に滲んだ青いインクが、淡く光る水銀灯のように歩く道を照らし、暗い夜道に迷わぬように、現れた言葉が、私の手を引いて、正しい階段のある場所へと導いてくれることを、信じます。
苦しくとも純粋さを守りきったシーモア・グラスのように、生きれたら。
今日は七夕でした。作家になりたいと云う夢は短冊に書くんじゃなくて、自分で勝手に追いかけます。ノートとペンと思い描いた虚構世界で。
短冊:文学仲間と文学的パートナーが見つかりますように。(笑)
おあとがよろしいようで。では、また。
7月6日まで、短編小説の制作期間に入ります。
今日は取り急ぎ、ご報告まで。
【お知らせ】
7月6日まで、短編小説の制作に集中的に取り組む期間とします。文学学校の課題提出期限が差し迫っていて、ブログに手が入れられない状態が続いていまして。中々にハードな日々です。『ティファニーで朝食を 読解vol.2』を早いとこやりたいのですが、いまは短編を仕上げることを優先するしか手はなさそうで。一馬書房の更新も出来ないまま、仕事場でもイレギュラーなことがあったりと、かなり歯がゆいのですが、とにかく7月6日までは、作品を造り上げることだけを考えようと思います。終わったらこのブログで進捗をお伝えします。
『ティファニーで朝食を』の読解記事は7日以降となりますので、申し訳ありませんが、のんびりお待ちいただけるとありがたいです汗(待ってくださっている方もいらっしゃったようなので)
ツイートもしましたが、時々、息抜きにTwitter上には出没してます、見掛けたら遊んでやってください笑 7月6日に泣きを見るか、歓喜を見るかは原稿の進捗次第。
では、小説の世界に沈んできます。力の限り。
kazuma
Limited Days: 278 Days
T・カポーティ ティファニーで朝食を 読解vol.1
「カポーティは、私と同世代の作家の中では、もっとも完璧に近い作家である。ひとつひとつの言葉を選び、リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる。『ティファニーで朝食を』の中でこれは換えた方がいいと思うような言葉は二つもなかった。この作品はちょっとした古典として残るだろう」――ノーマン・メイラー (訳者あとがきより)