虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

『純文学って何だろう』

 つい先日、執筆会なるものに参加する機会がありました。それぞれが書くジャンルは異なるのですが、創作活動をしている方が集まって、作品を作ったり、合間にお話をしたりする会です。私は飛び入りのような形で入ったので、簡単な自己紹介をする必要がありました。なので一応、ジャンルは純文学を書いています、と云いました。しばらくして、こんな質問が投げ掛けられました。純文学って何ですか、いまいちよく分からない、と。正にごもっともな質問です。この質問を受けた時、これは返すのが難しい問題だと直感しました。純文学を書いています、と云っておきながら、それが何であるか、はっきりとは答えられないことに気が付きました。慌てて、記憶の片隅にあった好きな作家さんが云っていた言葉を返しましたが(『言葉がその言葉以上のものを表していること。辞書的な意味を超えているもの』)、自分で得た知見ではないので、完全に付け焼き刃の回答で、相手の方も当然納得している様子はありませんでした。自分でも云っていて、かなりあやふやなことを云ってしまっているとは、分かっていましたが……。
 
 そういう経緯で、『純文学って何だろう?』という純粋な疑問が自分の中で芽生えてきた訳です。会が終わって、家に戻ってもずっとそのことが頭にありました。もしこれからも、純文学を書いています、と云うつもりなら、少なくとも純文学とは何か、他の人に対しても分かるような言葉で説明できるようになっておく必要があります。そうでなければ、自分でも何書いてるか分かりません、と正直に云わなくてはならなくなるでしょう。もっとも自分が書いているものに関しては、それが正味のところの本音なのですが。これが純文学だ、と分かって作品を書いているのではないので。ある人には、あなたが書いているものは小説ではなくて、ただの自分語りだと云われたこともあります。悔しいけれども、その時は頷くしかありませんでした。
 
 とはいえ、この疑問を避けて通ることは、最早私には出来ません。執筆会が終わって五、六日経っていますが、まだ考えています。辞書に書かれている「純文学」の定義としてはごく簡潔に「大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学。」と記述があり、この説明では東の反対は西だ、くらいのことを云ったようなもので、やはり納得する回答にはならないでしょう。執筆会のメンバーのある方は、過去の文学者たちが生み出してきた作品の文脈や歴史、文学の流れを理解した上で、自分ならこう書くというものを作品として成立させることを趣旨として挙げられていて、それで尚且つ、大衆文学やエンターテインメントのように、読者を単純に楽しませるものではなく、自分の内側を掘り下げたもの、という回答をされていました。私の付け焼き刃の回答よりも遙かに分かりやすく、納得もいくのですが、私自身の答えではないので、この回答を踏まえた上で、自分の言葉にしなくてはならないだろうなという思いがしました。
 また、古本市を通じてお知り合いになった古書店の店主さんも、純文学についてお話してくださりました。ある作家の説明によると文学は四つに分けることができ、その内のひとつが純文学であり、前述の過去の作家達の文脈を理解した上での創作、というのがまず純文学の前提としてある。その上で、純文学とは批評から生まれてくるもので、その根幹にあるのは現実に対するアイロニー(皮肉)なのだと。現実の物事に対して、その中に入っていって感傷的に出来事を経験する様を描くのではなくて、その事物から一歩離れ、俯瞰した姿勢の上で書かれたものが純文学なのだと、仰られて、思わず唸りました。私よりもきっとその店主さんの方が純文学の小説が書かれるのではないかという気がするのですが、とまれ、私もそういった自分の答えを出しておかなくては、いずれまたこの質問をされる度に立ち止まることになってしまいそうです。
 
 川沿いの路を歩きながら、純文学って何だろう、何だろう、何だろう……と馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返していましたが、そもそも言葉の定義もあやふやなものから思考を展開することは、人間には中々出来ません。そこで一旦、自分に立ち戻ってみることにしました。私が書きたかった文学とは何なのか、と。人前で、純文学を書いていますと云うからには、自分が書いているものが純文学ではないだろうかという意識があります(少なくとも、私は純文学を書こうとはしています。エンターテインメントを書こうとはしていません)。何故そう思うのかというと、私は大衆小説にあるような娯楽性や、読者の嗜好に合わせたストーリーの展開、読者が求めるような魅力あるキャラクター、推理小説のような技巧の緻密さ、そういったものを中心にして物語を書こうとしているのではなく、それよりもむしろ個人的な内面にある悩みや、ちょっと他人では理解し難いような苦しみと云ったものに突っ込んで、物語の中で描くことを望んでいるからです。そしてそれが、個人的なものを超えて、普遍性を持つようなものになった時、それを純文学と呼ぶのではないか、という考えが私の中にあります。
 普遍性。やっと言葉が出ました。これがどうやら純文学を表すひとつの鍵になりそうです。純文学と呼ばれる作家の作品の中には、普遍的な悩みや苦しみを扱っているものが多いです。例えば、芥川龍之介の『鼻』は、鼻が人よりも大き過ぎた為に、何とかそれを治そうとする僧侶の話ですが、簡単に云ってみれば、これは誰しもが持つコンプレックスについて話していることだと分かります。鼻がもし別の部位であったとしてもこのお話は成立するでしょう。読み手が人目から見て気になっている部分に置き換えて読むことも可能です。なんなら、それが精神的なものであっても構わない。内供は鼻についての悩みを自分固有のものとして捉えていますが、実は読み手からしてみれば、それは別のものにも交換可能な器を持った物語なのです。何故、物語において固有の悩みとして描かれたものが、他のものと交換可能かというと、芥川龍之介が特異な『鼻』を持った内供の話を、誰しもが持っているコンプレックスという普遍的な悩みについて考えることの出来るように、誰にでも分かる文章の形に置き換えているからです。仮にもし、芥川が個人的なコンプレックスのようなものを抱えていたとして、それが誰にでも分かるような普遍性を具えた物語を生み出せなかったとしたら――つまり、普遍性が欠けていた物語になっていたとしたら――その物語は純文学の範疇から外れ、漱石は『鼻』を褒めたりはしなかったでしょう(実際はそんなことは有り得なかったのですが)。
 現代の純文学と呼ばれる作家の作品のテーマを見ても、その中には必ず誰しもにも相通ずるような、時代を経ても変わらないようなテーマが潜んでいます。例えば、純文学作家の中村文則さんは、『教団X』をはじめ、『悪と仮面のルール』や『掏摸』といった著作で一貫して、人間社会の中の悪、ひいては人間自身そのものに具わった悪について描かれています。誰しもが、何かしら気付いてはいるが、言葉には出来ない人間の昏い部分について、物語で分かるように示されています。また村上春樹さんの初期の作品は、若者が人生に意味や価値を見出せなくなっていく時代に、意味がないこと、一見してナンセンスに見えるような人生にも価値がある、ということを初めて肯定した作家であったと思います(恐らく、同じことをやろうとした作家はいたのかもしれませんが、ここまで広く読まれ、影響を与えることになったのは彼ひとりです)。これも、村上さんが描いた物語の中に、共感するような普遍性、誰しもが持っていて、あるいは誰しもが持つことを望んでいる物語が、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』『羊を巡る冒険』にあったからだと云えます。「僕」と「鼠」の固有のストーリーから、読み手は彼らの生き方に共感と憧れを抱いた。それは読者と交換可能な物語だったのだと思います。
 交換可能。二つ目のキーワードが出てきました。三つ目のキーワードとなるのは、(物語と書き手において)固有のものということでしょう。物語において示される事物が現実の読み手が問題とする事物と交換可能というのは、言い換えると、普遍的な問題が誰しもが分かるような文章で示されているということを意味します。また物語において固有のもの(悩み、苦しみといった考えることを避けられないもの)という第三のキーワードは、恐らく書き手自身にとっても固有の悩みや苦しみであることが多いです。第四のキーワードにはその悩みや苦しみと云ったことを当て嵌めても良いでしょう。悩みや苦しみは、一種の愉楽な感情と違って誰も逃れることが出来ないからです。普遍性と個人の持つ固有の悩みや苦しみと云ったものは通常、『普遍対特殊(固有)』と云った対立する概念と考えられがちですが、実は物語がその対立するはずのものの間に橋を架けます。純文学の物語において普遍のものごと(『鼻』においては誰しもが持っているコンプレックスについて)と特殊なものごと(内供の鼻が他人よりも大きいこと)は謂わば上下の位置関係にあると云った方がより正確であると思います。ユングの深層心理の図を思い浮かべるのがてっとり早いです。はじめに、つまり一番上の層に書き手が描こうとしている固有の苦しみや悩みについての考えがあります。ユングで云えば、意識的な層の段階です。次にこの苦しみや悩みと云ったものを文章に置換して、物語の形へと変えていきます。これは意識あるいはそれよりも下の無意識の層の段階と仮定できるかもしれません。この時点では、物語はまだ書き手あるいは物語の人物が持つ固有の苦しみと悩みについて語った物語でしかない訳です。つまり読者固有の経験と書き手もしくは登場人物の固有の経験が物語の中でまだ上手く結びつかない段階です。悩みや苦しみといったものが文章によって他人まで届くほど深く掘り下げられていない。ところが、この物語が個人の内面を深く通過していくことによって、ある種の特異点を迎え、無意識ないし集合的無意識の層にまで到達するような物語が描かれたとき、その物語は他者にも理解し得るものとなり、書き手、登場人物個人の悩みと、読み手自身の悩みが初めて交換可能になります。云うなれば、書き手と読み手の間に物語が小径(パス)を作り上げる訳です。それが純文学の領域で行われていることなのではないかと、私としては思います。村上春樹さんが創作する際において「井戸に降りていく」という比喩を使われるのは、そういった意味を含んでいる気がします。
 普遍性。交換可能。物語において固有。悩み、苦しみといった考えることから逃れられないもの。この四つの鍵を組み合わせて、私の純文学の定義を造り上げるとするなら、以下のようになります。
 
"誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で語っている物語"
 
「誰にも理解されない物事」というのは、書き手個人や物語の人物がもっている固有の経験や考えを指します。それを「語っている」。この場合だと個人的な苦しみや悩みといった考えざるを得ないことについて、物語の形へ変えていくということです。しかしこのままの状態では、「書き手、もしくは登場人物にしか分からない物事について語られた物語」になってしまい、それは決して普遍性を持った物語とは云えず、書き手と読み手の間を繋ぐ梯子は途中で途切れています。恐らくその物語は完全に書き手の独り善がりのモノローグであり、そもそもそれを物語や小説と呼んで良いのかさえ不明です。 
 私はこのことを人に指摘されるまで、気が付きませんでした。誰にも分からない物事を自分だけが分かっている物語にすればいい、と思っている節が何処かにありました。元々、私が小説を書き始めたのは病棟の中で、何にもすることが出来ない場所で、せめて自分を何か表現することは出来ないかと考え、残っていたのがペンとノートだけだったので、それが私の執筆の原点でありました。良くも悪くも。云いたいことは山のようにありました。しかし、あなたの書いているものは小説ではなく、ただの自分語りだと云われたのは、そういったことを指摘する為だったというのが真意だと思います。実際、二年ほど前に書いた作品に対して、個人的な物事について書かれたもの、と仰る方も他におられました。ひとに読んで貰えるような工夫を、誰が読んでもちゃんと分かるような言葉で――少なくとも、自分だけが分かるような物語ではないように――作らなくてはそれはただの自己満足で終わってしまうのだということを教えていただいた気がします。誰にも理解されない物事、自分の苦しみや悩みといった個人的なものを、読み手の人生と「交換可能」なもの、それが誰しもが持っている普遍的なものへ、物語によってならしめること。小説というのは文学的な領域において行われる錬金術のように思えてなりません。
 
 誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で書ける作家になりたい。それが純文学作家になる、ということではないでしょうか。
 
 言葉の魔術を信じて。
 
 kazuma

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