虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

読書録:『書店主フィクリーのものがたり』

 今日は読書録を綴ろうと思う。前からやってみたいとは思っていて、その割には後回しにしてやらなかった。こういうものはタイミングの問題で、やりたいと思った時が、はじめる時なのだ。人生において何かが起こるのは(善いことも、悪いことも)、大抵は時機の問題なのだと思っている。それくらいで丁度良いんじゃないかな、と。この本に出てくる或る警官の受け売り文句です。
 
 今回取り上げるのは、ガブリエル・ゼヴィン著『書店主フィクリーのものがたり』。先日、某新古書店にて一馬書房仕入れを行っていたところ、皆大好き早川文庫(海外翻訳小説)の棚に、この物語が収まっているのを見つけました。いや、内容は全く知らなかったんですけどね汗 それでも書店で目に留まる背表紙のものには必ず意味がある、というのが本好きの間での定説です。まだ新しいカバー装丁で、状態も悪くなく、帯には2016年度の翻訳小説部門・本屋大賞第一位の文字が踊っています。
 
 

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 最初の数頁を読んでみると、気難し屋の古書店店主の元を尋ねる出版営業のヒロイン、アメリアの描写で幕を開けます。主人公フィクリーは島でひとつしかないアイランド・ブックスの店主で、彼はやって来たアメリアに片っ端から難癖を付けて追い返します。アメリアがうちの出版物のどこが気に入らないのか、あなたは何が好みなのかと尋ねると彼は機関銃のように自分の嫌いな小説を羅列します。
 
「お好み」彼は嫌悪を込めてくりかえす。「お好みでないものをあげるというのはどう? お好みでないものは、ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム。おそらくは才気走った定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵――基本的にはあらゆる種類の小細工。ホロコーストとか、その他の主な世界的悲劇を描いた文学作品は好まない――こういうものはノンフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風というジャンルのマッシュ・アップは好まない。文学は文学であるべきで(以下、省略)」
 

 

 
 とまあこんな具合に読書のストライク・ゾーンの狭すぎる堅物店主フィクリーに思わず笑ってしまいました。因みに上記の引用部は延々と続きます。実はこの店主の好みが、物語の鍵を担っているということにはあとで気付きます。
 
 彼が嫌いな小説の種類をリストアップしている中に、『四百頁以上のもの、百五十頁以下のものはいかなるものも好まない』ということがさらりと述べてあります。彼が好むのは短編小説で、それを極めることが出来れば文学を極めることと同じなんだ、という発言をするくらいの短編小説への入れ込みようです。この本は章立てが一枚の扉絵とともにはじまり、各章のタイトルは現実に存在する本の題名と同じになっています。例えば、『リッツくらい大きなダイヤモンド』(フィッツジェラルド)、『善人はなかなかいない』(フラナリー・オコナー)、『父親との会話』(グレイス・ペイリー)などなど。
 
 そこには主人公であるA・J・F(フィクリー)のコメントが書かれてあります。どうも各章の題に使われている小説と、章の内容が対応しているようなのです。更に、扉絵に載せられている小説を全てピックアップしてグーグルで調べてみると、全て短編小説であるという、手の入れようには脱帽でした。著者は相当な本好きであることに間違いありません。フィクリーはこのコメントを誰かの為に書いています。
 
 物語は、妻を事故で失ったり、莫大な価値を持つポーの稀覯本が棚から盗まれたり、店に勝手に子どもを置いて行かれたりと散々な目に遭うフィクリーが、知らぬ間に謎の中に巻き込まれていく、というお話。迷わずに買って正解でした。蓋を開けてみれば、本屋大賞一位も納得の出来。翻訳調の文章と海外ドラマ風の雰囲気(著者はシナリオ・ライターの経験があるようです)には多少癖がありますが、それでも物語の面白さは少しも減じられていません。思わずふっと笑ってしまうような文章の連なりです。読み終えて本を閉じた時、自然と笑みがこぼれていました。
 
 『書店主フィクリーのものがたり』の主なテーマは、ある地点では明らかに不運と見える出来事が、あとの地点になると幸運だったということが分かる、ということだと私は思います。書店主フィクリーの人生は誰がどう見ても散々なことばかりです。妻に先立たれ、本は盗まれ、店に勝手に子どもを置いて行かれる。でも彼はその不運と引き換えに別の幸運を手に入れることになるのです。本人はその引き換えを知らずにやっていることに気付きません。完全に成り行きです。でも、現実の私たちの人生もそんなものではないでしょうか。
 
 不運な出来事というものは誰にも選ぶことが出来ません。ある日、突然フィクリーみたいに謎の中に巻き込まれてしまうことだってあるのです。しかし彼はその不運に見舞われたと思われる出来事の中でも、やっぱり本を信じて生きていく。実はこの物語の主要な人物達は、神様を信じていない、という点が隠されたテーマの中にあるようです。運命なんかちっとも信じていないように振る舞いながら、彼らは変えることの出来ない出来事の中で、もがきます。私がこの物語に惹かれたのは、もしかしたらその部分が一番大きかったのかも知れません。何となく読みながらそのことを感じていました。矛盾の中に引き裂かれながら、それでも日々を続けていく登場人物達の人生に。
 
 アメリアは終章でこんなことを述べています。
 
『私はアイランド・ブックスを心から愛している。私は神を信じない。信奉する宗教もない。だが私にとってこの書店は、この世で私が知っている教会に近いものだ。ここは聖地である。アメリア・ローマン』
 
 もし神様が人間に不運な出来事を与えるのだとしても、その出来事を簡単に投げ出してはいけない。神様が与えた不運よりも、私たちは人間の書いた本の言葉を信じている。そうすればいつか不運な出来事は、巡り巡って幸運へと換わる瞬間が訪れる。著者が云いたかったことは、そんなことだったのかもしれないと、隣に置いた本を見ながら思っている。
 
kazuma