虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

サイコロをもう一度振る

 10月に入って様々な心境の変化があり、喜ばしいことがあったり、哀しいことがあったりの目まぐるしい日々でしたが、ある意味では今日でひとつの区切りが付きました。

 古本屋のことも、小説のことも、あるいは人間関係も、それぞれに現実を突き付けられたように思います。いままでわざと自分に目隠しでもするように欺こうとする面があったのは自覚していましたが、ここに来て色んなツケが回ってきたのかもしれません。まだ返済していない人生のツケは山のようにあって、相変わらず最低な日々を送っていることに違いはありません。それでも何とか息はして、古本屋のことをやったり、本を読んだり、ものを書いたり。他の事なんて何にも望まないから、そういう落ち着いた日々さえ送ることが出来たらいいから、と常々思うのですが、現実はいつまでもそんな夢を見続けさせてくれるものではないですね。

 それでも現実が虚構より優れているとは思いません。現実はただ強度があるということだけで、色んな可能性や夢や希望をいとも簡単に踏みつぶします。ですが、それが強いからといって、虚構よりも優れると考えるのは多分間違っています。もしこの世の中から全ての虚構が消えたら、何と味気ない日々がそこに待っているでしょう。現実があるから、虚構の夢が見られるんだというのはごもっともですが、それなら逆に、虚構の夢から現実が形作られることもあるのだということを逆説的に私は信じています。

 社会学の言葉に「構築」と「再構築」という言葉がありますが、社会的事物Aは、自らのルールや規範等の枠組みを通り抜けた他の事物を【事物B】へと「構築」するのですが、一旦「構築」が終わった事物Bは、今度は逆に自らを規定し生み出した事物Aを「再構築」することによって、元々の事物Aを【A’】の形へと変容させます。事物Aが現実で、それが生み出した事物Bが虚構とあてはめてみると、虚構が現実そのものをねじ曲げてしまうことがあるのでは、と私は思います。優れた本、小説や物語にはその力があります。例を挙げると「聖書」がその最たるものだと思います。

 この二千年間で最も読まれた書物は常に聖書でした。言い方は少し悪いですが、もし聖書というある種の虚構を表す本がこの世になかったとしたら、人間の歴史はいったいどれほど塗り変わっていたでしょう? あるいはマルクスの「資本論」がなかったら?   

 SF好きなので話を大きくしてみましたが(デカすぎですね笑)、もっと近い例で云えば、村上春樹の本がなかったとしたらどうでしょう。毎年のノーベル賞騒ぎもなくなります、ハルキストがテレビ画面の中で落胆することもありません。今年のカズオ・イシグロ氏の受賞報道はもう少し淡々と流れていたでしょう……平穏ではありますが、面白くはありません。春樹の本がこの世から丸ごと消えたら、私の本棚の棚ひとつ分が空いてしまって寂しいですし、『1Q84』がこの世になかったら、小説に救われるような得難い体験のひとつが消えてしまうし、もしかしたら私は彼の作品が存在しないことで、全く違う種類の物語を書くことになっていたかもしれません(いち物書きの私も影響は受けたので)。下手をすると物語を書いていなかった可能性さえあったと思います。

 このように虚構の中の物語が現実そのものを変えてしまう力を持つ場合があるので、私は物語のことを信頼しています。そこにあるのは単なる文字を象った記号ではなく、意味を持ったひとつの王国のようなものだから。そこにはヴェールに包まれた女王である理想が棲んでいます。言葉さえ追っていけば、望んだものも、予期しなかったものも両方を見られる。たとえどんなに現実が辛いものでも、本や虚構の中に物語を読み取る余裕さえあれば、虚構は現実以上に私に多くのものを与えて、現実に痛め付けられた傷を癒やしてくれます。そういった物語を生み出せるようになるために物語を書いているところがあります。物語を読んでいる間だけでも、現実の強度を超えていくものを。でないと書く意味がない、少なくとも私個人には。

 

 虚構の為に、もう一度人生の賽を振ります。

 

 Payin' anything to roll the dice Just one more time.

 

    kazuma

 

 
GLEE Full performance of "Don't Stop Believing"