虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

スタート地点のスタート地点

 この一ヶ月、頭の中が破裂しそうな時が沢山あった。何度か病院にも行った。医者から薬をもらって飲んだ。治らないことは分かっている。道ばたで偶然すれ違った、かつてのクラスメイトに非道いことを言われたような気もする。多分、どうでもいいことだ。仕事を辞めてからは、あまりまともに他人と喋っていない。必要最小限度の会話。機械のように喋るイエスとノー。今まで、自分をぎりぎりまともな方に引っ張っていてくれたのは、かつての職場の人達との会話があったからかもしれない。ひとりになると頭の中のモノローグが止まらなくなったりすることがあって、似たような感覚は、昔、自分が大学生だった頃に狭っ苦しいワンルーム・アパートに住んでいた時にも感じていた。あの時はニーチェを必要な食べ物か何かのように貪るように読んで、最終的には彼の最期と同じく気が狂って家を飛び出した。もし病がなかったらと思うことはあるが、「IF」の話が出来るのは虚構の中だけだ。いま公募向けに書いている小説は、かつて間違った選択をした過去の自分に対して、正しいものを選ぶように、未来である自分から語りかけようとしているように感じる。過去の自分がいま書いた物を読むようなことがあれば、彼がこの未来を選ばないような小説を書きたいと思っている。でも、本当のところは分からない。小説が出来上がったとしても、その小説が存在しなかったとしても、結局私は――私たちは――何十万遍も同じことを繰り返し続ける気がする。生きる答えが書かれている紙が存在するとしたらそれに全財産を擲っても良い。もっとも、私の財産など高が知れているので、一文字も読ませてはくれないだろう。神は基本的には意地が悪い。答えなんか教えることもないまま、何処かへ行ってしまったみたいだ。

 私の半分は既に狂い切っている。他人が居る場所で誰かと話をしたり、公共の場に出るような時は、残り半分の造られた仮面を前に一生懸命持ってきて、狂った部分を隠そうとする。最初の数十分は何とか上手くいく。二、三日ならぎりぎり保つ。だが一週間も経てば、その仮面は既にぼろぼろになって、合間からは醜く狂った私の本当の顔が姿を現す。私はきっと世間が言うところの真っ当さを何一つ身につけず、大人と子供の中間の奇妙な生き物になった。真っ当に育たなかったのだから仕方ない。選べなかったものはどうしようもない。私はよく『ニーバーの祈り』を思い出す。小さな趣味であるタロットのカードを広げるときにはいつも呪文のように唱えている。近頃はそらで言えるようになった。

 『神よ、願わくば私に変えることの出来ない物事を受け容れる落ち着きと、変えることの出来る物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とを授けたまえ』

 この文句は、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5(屠殺場5号)」に出てくる一節で、主人公の部屋の壁に掛けられている。ヴォネガッドはこの後、登場人物である主人公のビリー・ピルグリムに向かって、地の文でこう付け足している。

『ビリー・ピルグリムが変えることの出来ないものの中には、過去と、現在と、そして未来がある』

洞察力に優れた作家によると、世の中なんてそんなもんである。私も半分はそれに賛成する、賛成せざるを得ない。この小説の中で、ビリーは、戦争の真っ只中に放り込まれたり、宇宙人に連れ去られたり、捕虜になって病棟に突っ込まれたりする。彼自身の意識は時間を飛び越えることが出来るようなのだが、物事を何一つ変えることの出来ないまま苦痛を経験する。もし人間に自由意志というものが存在せず、神が定めた通りの人生を生きるのなら、生きる意味などあるだろうか? という問いは何百と繰り返して問うてきたように思う。過去の出来事も、未来の出来事も、現在の出来事も変更不可能であると仮定するならば(多分この仮定は半分の真理だ)、私たち人間に変えられるものはいったい何であるか、という問いが浮上してくる。私の答えは、人間に自由意志が存在しないと分かっていながら、自由意志が存在するように振る舞うということである。自分には正しい意味で物事を選ぶことが出来ないと分かっていながら、物事を選び取ったのは自分であると信じることである。そう錯覚でもしないと、おそらく理屈屋の人間は生きることに意味を見出せずに苦痛だらけの人生に耐えることができない。何にも考えずにただ楽しく暮らすことの出来るなら、それは得がたい才能だが、私はそちらの方面の才能は徹底的なまでに皆無である。学生の頃、お前は何でも悪く考えすぎなんだ、と顔も覚えていない誰かに言われたことがあったが、考えることだけが唯一の取り柄なのだから仕方ない。ニーチェは神を殺し、神が存在しないのであれば罪や罰も存在しない、従って人間には神から与えられた人生というものは存在せず、意味もまた存在しないというような主張を立てた。人間が宗教の元に打ち立てようとした幸福や論理や人生の意味を全て白紙に戻したのである。この点に関して、眉をひそめるひともおられるかもしれないが、私は複雑な理由と単純な感情からニーチェに賛同する気持ちがあって、しかも本当に答えを出さないといけないのはこの問いの先にあるのだということも確信している。スローターハウスの小説で、人生について知る必要のあることはカラマーゾフの兄弟の中に書かれている、と言い放つローズウォーターという人物がいる。彼は続けて、でもそれだけじゃ足りないんだ、と言う。おそらくドストの大審問官の中で提示されているものは――無神論者であるイワンが問うたことは――ニーチェが問うたことと繋がっている。彼らは何千年と続いてきた既存の価値観を破壊することには成功したが、そこから先に存在している実際の人生に対して意味を与えるような解答を用意できた訳ではなかった。このニヒリズムの坑から出られる方法を私は見つけられず、もし小説を書き続けることで、自分の中に通常の自分では出せないようなこの問いの答えを無意識に炙り出すことができれば、この光ひとつ差さない場所から出ることが出来るかもしれないと考えている。

 

こんな話をするつもりではなかったので、現実の話に戻す。古物商申請の件だけど、今日ようやく申請書類を警察の方に受け取って頂けた。四十日後辺りに許可が下りるらしい。部屋も点検するそうなので、念入りに掃除しなくてはならない。実際の梱包材やら商品を送る手順にサイト構築等、いくらかやることがある。やることがあるのはいいことだ。余計なことを余り考えなくて済む。公募小説の進捗はほぼ八割のところまでは来た。この三日間、Twitter界隈で個人的に色々な動きがあり、何人かの方に励まして頂いたり、相談に乗って頂いたりした。そういう人達がいなかったら、精神的にやられてどうにもならなかったかもしれない。声を掛けてくれたその数人の方々には本当に感謝しています。ありがとう。

 

 kazuma

 

 

 余談:時々、洋楽のPVを観るのが好きです。二、三分の短い時間の中に言語でない物語を感じることが出来ます。お前はそういう柄ではないだろうと言われるかもしれませんが、こういう体験は書くときに役に立つし、そもそも書くことに役立てようと思ったらどんなものでも役に立つんですよね。案外、生きる意味や理由なんてその中に転がっているかもしれません。全てを小説や何か妙なものの為に捧げようとするのであれば。