虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

「愚者」とマイノリティーの幸福

今日は執筆とはあまり関係の無い話。全く関係ない。

半年前くらいからタロットにはまっている。といっても、少し囓った程度で、ケルト十字(という占い方がある)ばかりを広げて、カードの前でうんうん唸っていたりしている。占いなんて嘘くさい迷信の一種で、そんなものを気に掛けていたら、何も自分で決められなくなる、と昔は思っていた。小さい頃の憧れはやはりシャーロックで、本の中で彼は徹底的なまでに論理を駆使して、依頼人からの難題を切り抜けていく。それは、私にとってのスーパーマンみたいなもので、「緋色の研究」でガラス壜の並んだ部屋で血液に反応する試薬を作って大喜びしているシャーロックは、どこか突き抜けた格好良さというものを幼い私に提示した。小学生の頃、科学者になりたいなどという、今の自分からすればたわけたことを抜かしていた時期があったが、その頃、数学の素養が自分に全くといっていい程ないことには勿論気づかず、マイナス×マイナスが何故プラスになるのか、という中学生最初の暗黙の了解を了解できなくなることを知らなかった。いまは了解している(振りをしている)が、説明しろといわれたら、丁重にお断りする。ゆとりですみません。誰か教えて下さい笑

 学生の頃から相変わらず数学的素養は毛ほどもないままだが、その代わりに本は読んできたつもりでいる。国語の試験でよく出る、小説を一部切り抜いた文章を読んだりするのが好きだった。作者の気持ちなんぞ五十字以内で表現されたらたまらないだろうと思いながら問いの空欄を埋めた。出題の文章が読みたくて、適当に記号欄を埋めて、そっちのけにしたこともある。引用の文章末尾には括弧の中に、題名と作者が書いてあってそれを頼りに本屋に出向いて探したりもした。完全な文系人間だ。シャーロックとは器質的に真逆である。シャーロック・ホームズの冒険譚を書くのはジョン・ワトソンであって、ホームズではない。にも関わらず、私はいまも部屋にシャーロックのポスターを飾っている。結局、私は自分と反対のものに惹き付けられるのだろう。幼い頃に憧れたものは、幾つになっても特別なもので在り続けるように思う。

 話が脱線したが、文系(文学)人間というものは基本的に合理的なものよりも非合理的なもの、形が与えられているもの(具象)よりも形のないもの(抽象)についての理解を好む、もしくは長けているという傾向があるように思う。数学や科学が扱うのは、記号の中に置換できるものであって、その記号が示すものは世界中どこに行ったって共通の理解のもとに成り立つ普遍性を持っている。一方、文学の場合は扱う記号である言葉は、共通理解もくそもなく、ある人物Aが林檎という文字を見て浮かべる映像と人物Bが林檎という文字を見て浮かべる映像は違うものであったりする。ドストレートに赤い林檎を浮かべる人間も居れば、欧米圏の生まれだと青林檎を思い浮かべたりするかもしれない。「林檎」を英語に置き換えて某有名企業を思い浮かべる輩もいるだろう(いつもお世話になっております)。また、文章の流れの中で一文字でも位置がずれたり、入れ替わったりすると、使われている言葉や指し示す意味が同じであっても、読む(受け取る)側の印象は違ったりする。「林檎のなっている木」と「木になっている林檎」は違う。前者は木そのものに視点が投げかけられているが、後者は林檎のほうに視点があたえられている。助詞と順序を入れ替えただけでこれである。数万字の小説の感想が一致しないのはいわずもがな。その意味のブレ具合、解釈のバリエーションがある可能性、というものを楽しむのが文学の面白いところだと思う。個人的にはそのブレ幅が大きければ大きいほど面白い文学かもしれないなと思う。誰から見ても面白くて、誰が読んでも素晴らしいという感想を持つようなベストセラーは数年後には忘れられて、某新古書店の棚に山積みになっていたりする。そういう本が悪いとは思わないし、むしろミーハーである自分は結構食いついたりもするのだが、長い時間を経て残っていくのは、ああでもない、こうでもないという解釈の可能性が沢山残っている謎を残していった文学者達の作品なのだ。ドストの「大審問官」の解釈はまだ百年後も続くだろうし、ダンテの描いた「地獄」だって現に七百年後も残っている。あるいは芥川や太宰のように彼らは何故死を選んだのかという作者そのものへの謎を解くために作品を紐解くようなこともある。アプローチは何だってよくて、とっかかりは突拍子な思い付きでも構わない、その自由な謎の解き方に、私は惚れ込んでいるのかもしれない。シャーロックとやり方は違うかもしれないけれど、そういった謎に惹かれる気持ちだけは同じなのだ。だから、いまでも彼の背中を見ているような気持ちでいる。

 脱線しまくりだが、そういう非合理的なものや一見「愚か」と見える物事の中にも、実は合理的な考えからではすぐに辿り着かないことを得たりすることがあり、自分の場合はそのひとつの方途として、タロットを使っていたりする。タロットの中には大アルカナという二十二枚のカードの枠組みがあって、その中に「愚者」というカードがある。

 

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<写真:大アルカナ 0番 「愚者」のカード>

 私はこのカードが気に入っているのだが、写っている人物は、側にある崖なんて全く気にもせず、白い犬が吠えて忠告している(ように見える)にも関わらず、彼はそんなことは露とも知らない顔をして、弁当みたいな包みを持って何処かに旅立とうとしている。このカードを見ると、私は、カポーティの「ティファニーで朝食を」の一節を思い出す。

 それでも、折に触れて彼女(ホリー)は妙に念入りに何かを紙に書き付けた。その姿を見ていると、僕は学校時代に知っていたミルドレッド・グロスマンというガリ勉の女の子を思い出した。湿った髪と、汚れた眼鏡のミルドレッド。蛙を解剖し、スト破りを阻止しようとする人々にコーヒーを運ぶしみのついた指。その表情のない瞳が星に向けられるのは、その科学的重量を算定するためでしかない。(中略)ひとりはごちごちの現実主義者になり、もうひとりは救いがたい夢想家になる。二人が将来どこかのレストランで同席するところを僕は想像する。ミルドレッドは相変わらず栄養学的見地からメニューをじっと睨んでいる。ホリーは例によってあれも食べたいこれも食べたいと考え込んでいる。この二人はいつまでたっても変わらない。同じように迷いのない足取りで人生をさっさと通り抜け、そこから出て行ってしまう。左手に断崖絶壁があることなんてろくすっぽ気にかけずに。(「ティファニーで朝食を新潮文庫版 村上春樹訳 p.92-93より引用)

 ミルドレッドはフリーク(変人)っぽい感じがするし、作中のヒロインであるホリーはおてんばどころか破天荒で色々ぶっとんでいる。二人は両極端な性格を持つ人間として話に持ち出されるが、カポーティは、その二人はある性質においては同じだということを言おうとしている。彼女ら二人は「普通」や「常識」の範囲から飛び出している人間であるし、その性格は対極にさえあるが、彼女らは自分を疑ったり、恥じたりはしていない。だから、「普通」であることの崖なんて怖がっていないし、もっと言えば人生に潜む危険のことなんか顧みずに生きていられる。その自由さが、私には「愚者」のカードと重なる。「愚者」のカードは道化師にそのルーツがあり、彼らはルールに縛られたりはしないで、人から笑われることを何のためらいもなくやってのける。そのことで人を楽しませさえする。そういうことが臆面無く出来る人間というものは多くない。数が少ないから基本的にマイノリティーの側である。私は、自分がやっていることがひとにどう思われるか気にする割には、いまの社会的立場としては完全にマイノリティーの側である。でも、そういう「恥」を越えていかないと、マイノリティーとしての本当の面白みはないんじゃないか、もったいないんじゃないかと思う。社会の基本的コースからは思い切り外れたんだから、ミルドレッドやホリーみたいに、「普通」であることの崖なんて気にならなくなるところまで突き抜けられたらいいのにと思った次第です。

 

これが言いたかった笑 

 

長いのに、読んで下さった方、ありがとうございました。夜も更けてきたので今日はこれまで。

 

kazuma