虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

T・カポーティ ティファニーで朝食を 読解vol.1

 以前の記事で、好きな文学作品の研究がしたい、と書いた。新年の目標にも掲げていた。ある人に教わったことだけれど、ブログに好きな作品についての文章を纏めると、作品の理解に役立つとアドバイスを貰っていた。作り手としての目線から見ることで、執筆にも活かせると。中々時間が取れず、ずっと後回しにしてきたのだが、そもそも作品を作る上での闇雲な方法論にも限界を感じていたこともあって、一から出直そうと、影響を受けた作品の読み直しをしていた。
 
 という訳で、作品読解を記事にしていこうと思う。第一回として選ぶなら、やはり最も好きな作品を取り上げるのがよい。一番好きな作品は、とうの昔に決まっている。T・カポーティの『ティファニーで朝食を』しかあり得ない。
 ミス・ホリデー・ゴライトリー、トラヴェリング。檸檬と石けんの香り。朝食用シリアル。ブラウンストーンのアパートメント。茶トラの海賊猫。作家志望の青年――、すぐに思い出すイメージは、そんなところだ。
 
 この本に出会ったのは、大学生の頃だった。キャンパスを歩くにもそぞろ歩きの初々しい季節に、街中の書店で買い求めた。当時は、カポーティの名前さえよく知らなかった。この作品を読む前に、川本三郎訳の『夜の樹』は既に読んでいたが、あまりに難解な短編集に感じて、一度読むのを止めて途中で放り投げたことがある。アンファンテリブル(仏:enfant terrible=恐るべき子ども。コクトーの同名小説が由来)の惹句に惹かれて、『夜の樹』を読み進めたが、理解が全く追い付かなかった。自分の中で、カポーティという作家には奇妙さ(Strange)を感じている。それは決して悪い意味ではなく、彼ひとりだけが持っている"unique"なものという意味で。何がユニークなのかと云えば、普通の感覚ならば絶対に引き出してこないような論理構造が彼の物語の中にはある、ということだ。特に『ミリアム』や『無頭の鷹』には、はっきりとそれが現れている。通常の、私たちが慣れ親しんだ物語の因果法則は全く当てにならない。誰が一読してミリアムの正体を見破り、ヴィンセント・ウォーターズの夢を解き明かすことが出来るだろう? たぶん、そんなことは誰にも出来っこない。カポーティは、読者の読み筋を辿るのではなく、自らの筋を辿るように要求する。奇妙さを際立たせているのは、その言葉選びのセンス、語感である。初めて『夜の樹』を読み終えた頃、作品としての理解が追い付かなかったにも関わらず、はっきりと、この物語は美しいと感じてしまった。ある作品が美しいことを、他の文章によって示すことは原理的にできないと思うのだけれど、敢えて言葉にするとすれば、それは選ばれている言葉そのもの、事物そのものが美しい、としか云いようがない。カポーティの小説は物語の筋だけを見れば、不可解で、奇妙で、入り組んでいる。けれども、そこに洗練された感覚が、研ぎ澄まされた神経が捉えたものは、一粒のダイヤモンドの輝きよりも美しく、透き通っていて、誰にも触れることを許さない。私たち読み手は、ただ物語を通してのみ、その輝きを見つめることが出来る。土台は非常に不安定で、ストーリーは常に現実から乖離することを望んでいるかのように思えるが、そこからまざまざと立ち現れてくるものは、現実よりも遙かに生々しく、リアルで、虚構と現実の境界線を、いとも簡単に消し去ってしまう。カポーティの物語は、それがどんなものであれ、夢を見ている気分にさせないものはない。悪夢でも、幸福に包まれた夢でも。現実に飽きた私たちにはうってつけの物語だ。
 
 『ティファニーで朝食を』はカポーティが見せる数ある夢の中でも、とりわけ幸福な夢だ。尤も、切ない哀しみに沈んだ幸福、という意味で。ひとの出会いと別れを描いたもので、これほど完成された物語は他にないと思う。村上訳のあとがきでノーマン・メイラーのコメントに触れられていたが、彼の言葉をここに引用しておこう。
 
カポーティは、私と同世代の作家の中では、もっとも完璧に近い作家である。ひとつひとつの言葉を選び、リズムにリズムを重ね、素晴らしいセンテンスを作り上げる。『ティファニーで朝食を』の中でこれは換えた方がいいと思うような言葉は二つもなかった。この作品はちょっとした古典として残るだろう」――ノーマン・メイラー (訳者あとがきより)
 
 今回取り上げるテキストとしては、新潮社から出ている村上春樹訳を底本とし、必要とあれば、ペンギンクラシックスから出ている原文を当たる。海外作品を読み解く時に、原文を当たることが必要というのは尤もな話だけれど、私は語学に堪能な訳ではなく、英文学の講義を潜りで聴いていた程度の知識で、殆ど無いようなものである。それに私が出会ったのは村上訳の『ティファニーで朝食を』であり、せっかく翻訳大国に生まれたのだから、それにちっとばかし甘えたって罰は当たらない(はずだ)。私は原典原理主義者ではなく、ただの一介の翻訳文学好きでしかない。トルーマン・カポーティ氏には僅かに目を瞑っていて貰おう。きっと片目でウィンクをして許してくれることだろう。
 
 読解がどのようなものになるか、いまのところは分からないが、順を追って、分かったことを記事にしていきたい。もしこのブログを読んでくださっている方で、私の解釈はこうだよ、というものがあればコメント欄に書いていただければ、嬉しく思います。何となくカポーティに対する印象と、本編に入る前のガイダンスみたいな感じになってしまったけれど、今日はここまで。
 
 kazuma
 
 近況ひとこと:最近は、新しい小説の制作に取り組んでいます。三十枚を目処に、きっちりと仕上がった短編小説を作ることを目指したいなと。子どもだった頃の純粋な思い出をテーマに、大人になり切れなかった人間の苦しみ、孤独を、作品の中で描くことが出来ればと思っています。
 

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やりたいことリスト

 ブログを始めてから約一年が経つ。年始に掲げた目標も達成・継続できていないものが多い。そろそろ六月に突入するので、折り返し地点と云うことで、再度やることを確認するために書く。以下、やりたいことリストの備忘録。
 
 <小説のタスク>
 
・三十枚程度の短編できっちりとまとまった作品を造り上げることを目標に再度はじめる。文学学校に提出する原稿を兼ねる。納得がいくようなら、これを群像に宛てる物語の原案にする。原稿三十枚を七月上旬に完成予定とする。
 
 
一番好きな物語のことをもっとよく知りたい気持ちがある。もう一度、小説について考え直す為、原点に帰る。自分にとっての物語は何なのかと問うことと、その実践。
 
・"Breakfast at Tiffany's"の翻訳、及び村上訳の日本語版写経。
 
・就寝前の読書→芥川龍之介全集、T・カポーティJ・D・サリンジャー。本当に好きな作家に絞って読む。基底となるベース部分の世界観を確立すること。
 
・移動中、外出中の読書→kindleドストエフスキーの「悪霊」を読む。
 
・在宅時の読書→V・ナボコフの「ナボコフの文学講義」(お知り合いの方が貸してくださったのでどうしても読み終わりたい)
 
・一馬書房関係の読書(出品用だが読んでおきたい本→亀山訳のドストエフスキー地下室の手記」、中村文則「遮光」)
 
・読んだ本は、読書ノートを付ける習慣を付ける。細かい部分はTwitterなどで呟いてモチベーションを保つ。本当に気に入ったものは構造を研究する。インプットだけで終わらせないこと。読むときに、どういう意図で書かれてあるかを考えて読む。執筆に回った時に活かせるように。
 
・小説のアイデア出し→在宅時は小説ノート、アイデアノートにまとめていく。外出時はモレスキンノート一択。evernoteも活用。
 
はてなブログだけでなく、読書の感想や短編小説などまとまった成果となるもの、読み物として成立するものはnoteなどに発表し、移行していきたい。はてなとの棲み分け。noteは前から気になっていたがアカウントを作っただけで、お布施用にしかまだ使っていない汗
 
・読み物として成立する物語を作るために小説の構成・キャラクター・プロットの三つの要素について学ぶこと。(本当にお世話になった方が教えてくれたことについて、文章の形で答えが出せるようになりたい。まず、小説の基本から学び直すこと。模倣することからはじめること。基本も出来ていない内から、自己流だけでやろうとしない。先行者が造り上げてきた物語の規則性について学ぶこと)
 
*小説のタスクを通して、最終的に、生き辛さを感じているひとの助けとなれるような物語を造りたい。それを世の中に向けて発信していくこと。書き手の為だけの独り善がりな文章で終わるお話ではなく、読む人が文章から何かを受け取って貰えるような小説を、いつか、書けるようになりたい。
 
 <仕事のタスク>
 
・いま働いている古本関係の仕事場で人間関係を学んでいく。拙くとも、きちんと人とのコミュニケーションが取れるように。いつか将来、自分がお店を持つときのことを考えて。
 
・「一馬書房、一日一冊」の試みはできる限り毎日続けること。出勤日でも帰宅後にすぐ行うように。年間三百六十五冊の出品が取り敢えず出来るように。まずは本店サイトの品揃えを充実させること。
 
Amazonで販売した方が戦える商品は別にして取っておく。年内に、Amazonでの出品作業をはじめる。これも自店サイトと、Amazon店の棲み分け。
 
・お客さんからの本の買い取りも、出来れば年度内には始めたい。
 
・出勤時は帰宅する前に、古本屋・新古書店仕入れを行う。
 
・これから仕事で関わっていくようになるひとと、失礼のないようにコミュニケーションが取れるようになりたい。最低限、円滑に意思疎通が出来るように。相手に、一緒に仕事をしても構わないと思って貰えるように。
 
・休日に関西圏の古本屋に足を伸ばして、どのように店舗を営業されているのか、お客さん目線で見て、考えてみる。感じたことをノートにまとめていく。
 
・最終的には、古本関係の別仕事(もしくは他の仕事でもよい)+一馬書房の収入で、きちんとご飯が食べられて、ひとりで生活していけるようになりたい。
 
*仕事のタスクを通して、経済的・精神的(社会人としての)自立を図る。ひとときちんと協力して仕事を行えるような力を身に付けたい。コミュニケーション含め。今までそういうものから逃げようとしてきたので。
 
 オープンにする目標は取り敢えずこんなところで。
 
 kazuma
 
 通信欄:このブログを読んでくださっているか分からないのですが、半年前に長編作品を読んでくださった方のサイトを訪れました。教えていただいたことを忘れた訳では決してありません。「他に作品を読んでくれる方もおらず」というのは侮蔑を意図して書いたものではなく、事実として文学関係の交友が当時殆どなかった為に、メールに書きました。誤解を招く表現をしてしまい、すみません。昔、はてなブログの文章やKDPの作品を読んで、憧れていたので、どうしても作品を読んで貰いたかった、というのが真意です。精神的に、いまよりも追い詰められていた時期だったので、通常では考えられないような長文の返信と、失礼な発言をしたことを悔やんでいます。
 
 出会う時期が悪かった、と仰っていましたが、私としても本当に辛い時期でした。いまでもやり取りしたメールを大事に取っていて、読み返しています。作品を造りながら考えたかったので、新潮には百枚程度のものを提出しましたが、また小説ではなく、お話を造りました。正直に云うと、通ると思っていません。自分の考えだけで書けば書くほど、小説というものがどんどん分からなくなっていきました。スタート地点に立ちたかったら、根底からやり直さなくてはならないという言葉が、その通りなんだな、と頭をぶつけたままでいます。
 
 自分で考えた方法論は一度棄てて、憧れた作家達が作った文章の世界を真似することから、はじめようと思っています。守・破・離を守ることもせずに、破ることも離れることも出来ないのだということを、今更になって感じています。ただ自分の為に書く独り善がりな文章ではなく、生き辛さを感じている誰かの助けになるような文章が書きたいと、それだけはいつも願って書いています。自分の文章が何処に辿り着けるかは、いまも分からないままです。
 

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未来の出口

 これまでのことを少し振り返る。五月に入ってから、自分が先送りにしてきた問題が、一度に現れて随分と参っていた。これからの仕事のこと、家族との関係、書いた小説のこと、ひととの関わり……。会う人、会う人に、あまり思い詰めるな、お前は堅苦しく考え過ぎるんだ、と云われた。元々、私はくよくよと思い悩む質だから(その性質にも良さがあることを分かってはいるつもりだけど)、またこうして書きながら考えている。
 
 ひとの輪の中から離れて、落ち着いて身の回りのものごとを整理する時間が、どうしても必要な人間だった。ひとりで居るのが昔から一等落ち着く性分で、その癖、ひとのいるところに行くと淋しくって仕方ない。そういう風に生まれついたのだろう。けれども、この社会で生きていこうと思ったら、誰かと関わり合いながら、生きていかなくてはならない。いつまでも観念のパンを食べて、文字の葡萄酒を呑んでいる訳にはいかないのだ。社会人なら誰もが覚悟していることが、未だに分からないでいる。大人にはなり切れず、子どもとは決して呼べない年齢で、地に足が付かないでふらふらしている。このままではどうにもならないと分かっていても、出口が見つからない。いまもひとのいない休憩所で、安っぽいパイプ椅子に腰掛けて未来について思い悩んでいる。いい年をした大人がやるようなことじゃない。出口がこんなところで見つかる訳がないと、分かってはいる。
 
 この月は、できる限り自分の苦手な部分を克服しようと、無理にでも人前に出る機会を増やした。自分としては割と努力してみた面もある。ただ何というか、片っ端から釘の頭を打たれたように凹んでいた。あるひとは、それは場数を踏めば分かっていくことだ、と云った。でも恐らく、何の努力もなしにただ年齢だけを重ねて分かるのではないことは、そのひとを見ていれば分かった。汗水を流して社会の中でもがいたからこそ、そのひとがそのひとになれたのだと云うことは。
 
 これまでの私は、本の言葉さえ知っていればよいと、それで一冊の物語が書けるのなら、それでいいと思っている節があった。現実なんて端から諦めていた。でも物語を書く為には、生きていかなくてはいけない。自分の思い描いた小説を書けるようになる為には、文章を磨く為の時間も、小説の糧にする人生経験も、生活していくための資金も、皆、必要だった。生きることよりも先に書くことがある、とずっと思ってきた。自分の生活よりも、ちゃんとしたものを書き残すことの方が大事だと、いまでもそう思う部分はある。けれども、極端な思想は人を痛め付けて、そのひとらしさを殺してしまう。何よりも言葉が、ただの嘘になる。
 
 出口が見えないなりに、いままでやってきた。何度トンネルを抜けたつもりになっても、自分は変わらないままだった。周りだけが変わっていった。文字の渦の中で泳いだって、端から見れば観念の中で遊んでいるようにしか見えないし、事実そうなのだろう。自分に欠けているのは世で生きていくための努力なのかもしれない。
 
 作家になる夢を諦めるつもりはない。ひとにどれだけ嗤われても、書いたものを貶されても、自分の人生を救ってくれたものを手放したりはしない。その為に惨めな一生を送ることになってもよい。元々、本がなければいまの人生さえなかった。どうせ拾いものの一生なら、ちゃんとした一冊の本が書けるようになるまで、足掻いてみたい。小説を書く為に、ひとの輪の中で生きていくことが必要だというなら、その代償もいずれ支払わなくてはならないだろう。ほんとうによいものを書く為なら、泥を被ってでも生き延び、どんなこともする覚悟と云うか、勇気が、欠けていた。少なくとも、いままでの自分にそれはなかった。いつか、書き上げてしまえばそれで終わりだ、と心の何処かで思ってきた。書き上げても書き上げても、文章は認められず、時間だけが進んでいった。終わらなかった。何の為にこの人生は与えられているのだろうと、ずっと思っていた。ひとと会う度に恥と痛みばかりを覚えた。色んな人の背中が遠ざかっていくのを唇を噛んで見つめていた。
 
 具体的な話になるけれど、ひとりの大人が最低限、社会で生きていく為の食い扶持を、古本の仕事を通して稼げるようにならなくてはいけないだろうということ。世の中のどのようなひととも、少なくとも仕事を進める上で支障にならないほどに、コミュニケーションを取れるようになること。現実に関わる誰かと信頼関係をきちんと築き上げること。自分の居場所を本の中にではなく、現実の中に見出すこと。現実の苦しみを知らない人間に、虚構の美しさは生み出せない。自分の言葉にはなってくれない……。
 
 世の中の人が当たり前に出来ていることが自分には出来なかった。端から諦めて生きてきた。片っ端から疑うことで、小さな自己を守り続けた。疑うことだけでは、ひとは生きていけなかった。虚構の中だけでなく、この生きている現実の中に信じられるものごとを見つけられなかったら、希望は喪われてしまう。ニヒリズムの思想だけでは、いずれ行き詰まる時が来る。自分は事情があって、そのように育った。そうしなければ自分を守れなかった。閉じることで生き延びた面も確かにあった、ただいつまでも閉じ続ける訳にはいかない。全ての殻は割られる時を待っている。知恵の蛇は偽りの皮を脱ぎ捨てることで蘇る。
 
 虚構世界で朝食を取りたいなら、現実の世界できちんと朝食が取れるようにならないと駄目だ。いつかトルーマン・カポーティが描いた世界に近付けるように。

"Anyway, home is where you feel at home. I'm still looking."
 
――でもね、腰をすえることの出来る場所が、すなわち故郷よ。私はそんな場所をいまだに探し続けているのよ。

 

 kazuma

 

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先が見えなくとも、賽を振る。

 
 今日は取り留めも無く書きたい。何となくそんな気分だった。
 
 三月の春から新しいことを色々やった。古本関係の仕事の兼業、他所の執筆グループへの参加、自前の執筆グループの立ち上げ、一箱古本市の出店、文学学校への参加……と、ここ二ヶ月で次から次へとkazumaが首を突っ込んでいったのはご覧の通りである。片っ端から頭をぶつけた日々だった。上手くいったものは殆ど無いに等しい。分かったのは、自分が誰かと一緒に何かをすることがひたすら向いていない人間だということ。元々、自覚していた性質ではあったけれど、対人の場面場面で、はっきりと色濃く出てくるものだから、思わず閉口してしまった。自分なりに何とか舵を取ろうとはしたが、ひっくり返したものがいくつもある。他の人が当たり前に出来ることが、自分にはひどく難しいもののように思われる……。
 
 去年の一年間は閉じることで進んでいった面があり、当時は一旦仕事を辞めて執筆にひたすら専念した。だが、それだけではどうも立ち行かないものを感じて、再び簡単なものではあるが職に就いて、一馬書房も始めてみた。実はこの二ヶ月、柄でないことばかりをやっていたように思う。上手くいかないのは当たり前だ、一番苦手なところを克服しようとしてやったのだから。柄でないことをすると、それは相手にも伝わるものらしい。ひとりで居ても苦しいし、誰かと居ることも苦しいのなら、いったい何処に人生のオアシスがあるというのだろう。ずっとビル街の中の砂漠をひとりで歩いている気がする。何処にも一滴の水が見当たらない。都会のような街を歩いていると、自分が探しているものが何であるか、分からなくなってくる。方位磁石は無くしてしまった。何処へ行きたかったのだろう。
 
 昔、行く当てのない自分のことを、受け容れてくれたひとがいた。何もかも投げやりになっていた時だった。人生で一番沈み込んで、綱から落ちそうになっていた時に、その誰かに助けられたことがある。そのひとが綱から落ちかかっていることも、分かっていた。けれども、私は背を向けて去った。そのことが正しかったのかどうか、いまでも分からない。
 
 時々、ひとりで布団に横たわっていると、何とはなしに思い出す。もし、自分の側にひとりでも信じてくれるひとが居たのなら、こんな未来にはならなかっただろうか。ひとと上手く関係を結べない原因は知っていた。心の底から誰かを手放しに信じられた経験は殆ど無かった。いつも物語の言葉ばかりを信じていた。言葉は好きになれても、ひとを好きになれないのは、どういう訳だろう。いまも森の中から出られずに居る。もしかしたら出たがっていないのかもしれない。相変わらず梟の声ばかりが聞こえている。光の差さない部屋の中で、本を脇に置いて眠る。真っ当な生き方では無いと思う。そのようにしか生きられなかった。
 
 一番先の、この地点から振り返ると人生の分岐点が何処にあったか、はっきりと分かる。だが、人間は間違った路を選ぶのが常らしい。正しかったのはペンとノートを取ったことだけ。小説は私に、人生を選んだ、という感覚を抱かせてくれた。選びそびれたことが、この二十余年の中に沢山ある、どれも取り返しの付かないものばかりで、思い出は埋まっていく。ギャツビーは、過去を同じようにはやり直せなかった。ホールデン・コールフィールドはあれから大人になったのだろうか。ホリー・ゴライトリーは、落ち着ける場所を見つけられた? 「僕」はブラウン・ストーンの建物を出て、いっぱしの作家になっているか。猫に名前は与えられたのだろうか。
 
 皆、煙草の煙のように消えていく。後には何も残らない。僅かに落ちた灰の一片を、無くさないように集めている。いつか両の掌に抱えきれなくなった灰を抱き、もう一度起こしたライターの火で明かりが灯るような、不思議なことが起これば。灰で出来た小さな物語の鳥が掌の中で蘇り、ふたたび空に羽ばたく日だけを信じている……。かつて見えていたあの青い火を、もう一度見たい。そう思って、何度も青いインクのペンを執る。正しいものが見えなくなっても構わない、昔と同じように、同じ色が見たいだけだ。ギャツビーは緑色の灯りを信じていた。私は言葉の灯りを信じている。その青い灯りを見つめている間だけ、私は本当のことが云える。
 
 これから、新しい物語を書く。次の群像は目標の期限で叶える為の最後のチャンスだった。賽を振る。信じた目が出るまで、私は賽を振り続ける。いつか私は"1"を引く。かつて同じ目を引いたひとが、そこに居ればいい。
 
kazuma
 

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物語の林檎

 こんばんは、kazumaです。今日は近況報告ということでブログを書きます。ここ数週間、身辺の環境が色々と目まぐるしく変わっていきました。中々、記事を書くことが出来ていなくて、この辺りで自分のことを含めて整理し、総括しておきたい、と考えていました。
 
 まずは執筆グループについてのことです。あれからメンバーの方との議論の末、スペースを残す形となり、管理人を引き継いでいただきました。色々なことがあったのですが、最終的に存続を望んでくださったメンバーがいて、空閑グループが継続されることになって良かった、と思っています。管理人権限の引き渡しが無事完了し、心境としては少しほっとしている、というのが本音でしょうか。グループからは離れましたが、影ながら今後の活動を応援しております。
 
 一馬書房とは別に新しく始めた古本関係の仕事は、二ヶ月目になります。最初は少なかったシフトも徐々に増え始め、新しい職場に徐々に馴染んできたところです。本はやっぱり好きなので(それも古本の方が良い笑)、作業が難しかったりする時もあったりするんですが、めげずにぼちぼちやっています。好きな本や作家さんを棚の中から見つけ出すと、ひとりでテンションを上げていますが、あまり人には云いません。もともと黙々と作業することの方が向いているようです。
 
 仕事を再開したのは、時間稼ぎの意味もありました。ブログを始めて、二年以内に作家になることを掲げてやってきましたが、ここに来てようやくその言葉の無謀さを噛み締めているところです。作家になる、と口にするのは容易いですが、六年間、書き続けてきて箸にも棒にも引っかからないままでは、プロになるという言葉に空虚な響きを感じるようにもなりました。三末に発表の群像の結果は落選で、これで公募の落選は八度目になると思います。
 
 根本的に、自分の文学とは何なのか、そもそもこの生き方を続けていってよいのか、思い悩むところがない訳ではありませんでした。もともと二十の時点でマイナスに振り切れたところからの人生だったので、喪うものはとうの昔になくしていますが、それにしても上手くいかないことだらけだったなと、曲がりくねった蛇のような人生を振り返って思います。端から見たら、誰も気付く人はいませんが、私の人生は二十を境に途切れています。交友関係もその前後で全く変わりました。人格としても別の人間になったように思います。その蛇のような二十年の人生が私に残してくれたものはノートとペンしかなかったので、私は物語の林檎だけを囓って生き延びてきました。それが良かったことなのか、私には分かりません。選ぶ余地はありませんでした。時々、他人事みたいに人生を眺めている自分に気が付きます。ほんとうのことを話すのは、ノートの前でペンを握っている時くらいなのかもしれません。嘘を吐くことでしか、ほんとうのことが云えないひとが、この世にはいます。
 
 仕事についてですが、一馬書房の古本の仕事を、いつか自分の生業にしたいと思っています。時間稼ぎ、というのは小説家を思い切り目指していられるだけの時間と、一馬書房として独り立ちが出来るまでの時間を稼ぐ、という意味合いです。文字ばかりを読んで、本に救われたような人間が生きていくのなら、本に関わらずに生きていくことは、あり得ないような気がします。私に出来ることは、ただ小説に関わり続けることだけです。その結果が自分を何処に連れて行こうと、構いません。ひとりで路地裏に野垂れ死ぬようなことになっても、仕方のないことだったのかなと思います。時計の針が、私に許す限りは、ものを書き続けて、本を読んで、古本を売って生きていこうと思います。
 
 グループのことや仕事のことも含めてそうですが、もともと私はひとりぼっちの人間だったんだということは、改めて思いました。私が無理に関わっていこうとすることで軋轢を生んだ部分もあったと思います。ですが、それでも側に残ってくれたひとや、暖かい言葉を掛けてくれたひとがいたこと、最後には理解してくれたひとがいたことに、感謝しています。
 
 春からは文学学校に通います。私の未来は分かりません。ただペンとノートを握り締めて、物語の林檎を片手に抛りながら、生きていくことは確かです。いつか誰にも云えなかったほんとうのことが、云えるようになるまで。ただの嘘吐きで終わるのは厭だった。
 
 kazuma
 

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