虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

『展望』

 時々、ひとりで文章をせっせと書き続けていると、もがいても足掻いても前に進むことの出来ない沼地に、露とも知らぬ間に足を踏み入れてしまっているのではないか、と思うことがある。沼の向こう側には見惚れるほど綺麗な水の流れる沢があって、そこばかりに眼を向けて歩いていたら、足下に気が付かなかった。振り返れば、かつてあった安定した土塁は側になく、足を抜くには深入りし過ぎている。遠くに流れる水の美しさだけが、いまも眼の底で煌めく火を灯すように輝いている。
 
 プロの作家を目指す、と書き始めた頃は何の恐れもなく口にした。崖から飛び降りる怖さを知らない『愚者』と同じく。このブログで公言しているように、勿論、その目標が他のものに代えられる訳はない。文章を書く人間や、何かを表現していこうとするひとは、何処かしら清水の舞台から飛び降りるような蛮勇を胸の裡に囲っていなくてはならないと思う。でも、その恐れ知らずの勇気だけでは、プロの文筆家にはなれないのだと云うことが、挫折と批判と冷たい社会の眼を通して、徐々に分かってくる。私には筆以外には何もないのだから、折る筆もないのだけれど、人の居ない山岳を単独行で登っていこうとする種類の辛さが、文章を書く中には確かに存在している。誰も通ったことの無い道を自ら進んで通っていけるもの。新しく生まれてくる文学には、そうした前提が必要なのだと思う。私はまだ先人の足で踏み慣らされた轍の前で、足踏みして居る。誰も通ったことのない、自分だけが知っている道が、見つからない。
 
 昨年十月末に応募した、第六十一回群像新人文学賞の最終選考通知はなかった。例年、二月中には連絡があるというのが公募界隈での定説であるから、選考の発表期間のことを鑑みても、最終選考には今回も残らなかった、と考えるのが妥当だ。読んだ人に徹底的に酷評された作品でもあったので、通るのは苦しいだろうと見ていたが、その通りになった。これを挫折と呼ぶのかは分からないが、七、八回と落選を繰り返すと感覚は徐々に麻痺してくる。落胆はしている、面と向かってお前には文を書く才能がない、と云われているようなものだから。作品を目の前でびりびりに破られることと同じだ。やり口がスマートになっただけのことだ。今頃、送った原稿は、何処かのゴミ箱に丸ごと入れられて、遠くの焼却場で恙なく焼かれて灰になっているだろう。
 
 何百回と本を読んでも小説というものが分からない。何十万字と文字を書いても、言葉が自分だけが表現しうる言葉にならない。月並み。云わんとしていることが、云えない。その内、云おうとしていたことが何だったかも、分からなくなってくる。ある人は、長い時間を掛けて小説がようやく分かった、という。自分にはどれだけ時間を掛けても小説というものが分かる気がまるでしない、生まれついた頭が悪かったんだろうか。
 時々、自分がどうして書いているのかが、発作的に分からなくなる時がある。小説家、と言う誰しもが知っている肩書きが欲しかった? 得られる賞金と、文筆家としての未来が? それによって手に入れられる新しい生活が? ――そんなものの為に、文章を書いているのだとしたら、それらを文章で手に入れようとする必然なんて何処にもなかった。普通に社会に出て、働いて、サラリーマンの肩書きを得て、堂々と社会で戦って手に入れれば良かったのだ。自分はそうはしなかった。社会から背を向け、溝板を這いずる鼠のようにのたうち回り、病を引き摺ったまま、書いてきた。出来なかった、という理由も少なからずあっただろうけれど、それ以上に、この袋小路に見える細い細い路に進んだのは、何処かできっと自分が選んできたからだ。このしみったれたような孤独の日々は、行き止まりの壁を思い切り蹴破るまで、どうすることも出来やしない。ただ現実を粛々と受け容れて、怖くても筆と共に進んでいくことの他に、路なんて最初からないのだ。
 
 新潮新人賞向けの原稿は、十二末から筆を執り始めてようやく六十枚を超えてきたところだ。筆が突然進まなくなることがあり、そういう時に本当に逃げ出したくなるような気持ちになる。けれども机から背を向けるようになったら、本当にお終いだとは誰が云わずとも分かる。年月が徐々に真綿で首を絞めるように迫ってくる。駄目になった原稿の束が積み重なる。生活はちっとも楽にはならない。相も変わらず病に苦しめられることに変わりは無い。そういう一切のものを代償としてよい、換わりに自分だけの言葉が欲しい。それが本当に見つかるのなら――、それを手に入れる為だけに、私は沢山のものを諦めて、掌で大事に握り締めようとしたものを、路端の排水溝に片っ端から擲ってきたのだから。
 
 苦しみと引き換えに、同じだけの言葉を。
 
 kazuma
 
 近況報告:再就業が決まりました。古本関係の仕事です。古本の仕事と個人でやっている一馬書房で最低限の糊口を凌ぎながら、何とか文章の道で生きていけるようになろうと、いまも、もがいています。同じように苦しみながら小説を書くひとと、共に目指す路を歩むことが出来ればと、思いながら。

 

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上記写真:筆者撮影。夕焼け色に染まる河。綺麗だと思った。河は昔から好きだ、何故かは分からないけれど)
 

『純文学って何だろう』

 つい先日、執筆会なるものに参加する機会がありました。それぞれが書くジャンルは異なるのですが、創作活動をしている方が集まって、作品を作ったり、合間にお話をしたりする会です。私は飛び入りのような形で入ったので、簡単な自己紹介をする必要がありました。なので一応、ジャンルは純文学を書いています、と云いました。しばらくして、こんな質問が投げ掛けられました。純文学って何ですか、いまいちよく分からない、と。正にごもっともな質問です。この質問を受けた時、これは返すのが難しい問題だと直感しました。純文学を書いています、と云っておきながら、それが何であるか、はっきりとは答えられないことに気が付きました。慌てて、記憶の片隅にあった好きな作家さんが云っていた言葉を返しましたが(『言葉がその言葉以上のものを表していること。辞書的な意味を超えているもの』)、自分で得た知見ではないので、完全に付け焼き刃の回答で、相手の方も当然納得している様子はありませんでした。自分でも云っていて、かなりあやふやなことを云ってしまっているとは、分かっていましたが……。
 
 そういう経緯で、『純文学って何だろう?』という純粋な疑問が自分の中で芽生えてきた訳です。会が終わって、家に戻ってもずっとそのことが頭にありました。もしこれからも、純文学を書いています、と云うつもりなら、少なくとも純文学とは何か、他の人に対しても分かるような言葉で説明できるようになっておく必要があります。そうでなければ、自分でも何書いてるか分かりません、と正直に云わなくてはならなくなるでしょう。もっとも自分が書いているものに関しては、それが正味のところの本音なのですが。これが純文学だ、と分かって作品を書いているのではないので。ある人には、あなたが書いているものは小説ではなくて、ただの自分語りだと云われたこともあります。悔しいけれども、その時は頷くしかありませんでした。
 
 とはいえ、この疑問を避けて通ることは、最早私には出来ません。執筆会が終わって五、六日経っていますが、まだ考えています。辞書に書かれている「純文学」の定義としてはごく簡潔に「大衆文学に対して、純粋な芸術性を目的とする文学。」と記述があり、この説明では東の反対は西だ、くらいのことを云ったようなもので、やはり納得する回答にはならないでしょう。執筆会のメンバーのある方は、過去の文学者たちが生み出してきた作品の文脈や歴史、文学の流れを理解した上で、自分ならこう書くというものを作品として成立させることを趣旨として挙げられていて、それで尚且つ、大衆文学やエンターテインメントのように、読者を単純に楽しませるものではなく、自分の内側を掘り下げたもの、という回答をされていました。私の付け焼き刃の回答よりも遙かに分かりやすく、納得もいくのですが、私自身の答えではないので、この回答を踏まえた上で、自分の言葉にしなくてはならないだろうなという思いがしました。
 また、古本市を通じてお知り合いになった古書店の店主さんも、純文学についてお話してくださりました。ある作家の説明によると文学は四つに分けることができ、その内のひとつが純文学であり、前述の過去の作家達の文脈を理解した上での創作、というのがまず純文学の前提としてある。その上で、純文学とは批評から生まれてくるもので、その根幹にあるのは現実に対するアイロニー(皮肉)なのだと。現実の物事に対して、その中に入っていって感傷的に出来事を経験する様を描くのではなくて、その事物から一歩離れ、俯瞰した姿勢の上で書かれたものが純文学なのだと、仰られて、思わず唸りました。私よりもきっとその店主さんの方が純文学の小説が書かれるのではないかという気がするのですが、とまれ、私もそういった自分の答えを出しておかなくては、いずれまたこの質問をされる度に立ち止まることになってしまいそうです。
 
 川沿いの路を歩きながら、純文学って何だろう、何だろう、何だろう……と馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返していましたが、そもそも言葉の定義もあやふやなものから思考を展開することは、人間には中々出来ません。そこで一旦、自分に立ち戻ってみることにしました。私が書きたかった文学とは何なのか、と。人前で、純文学を書いていますと云うからには、自分が書いているものが純文学ではないだろうかという意識があります(少なくとも、私は純文学を書こうとはしています。エンターテインメントを書こうとはしていません)。何故そう思うのかというと、私は大衆小説にあるような娯楽性や、読者の嗜好に合わせたストーリーの展開、読者が求めるような魅力あるキャラクター、推理小説のような技巧の緻密さ、そういったものを中心にして物語を書こうとしているのではなく、それよりもむしろ個人的な内面にある悩みや、ちょっと他人では理解し難いような苦しみと云ったものに突っ込んで、物語の中で描くことを望んでいるからです。そしてそれが、個人的なものを超えて、普遍性を持つようなものになった時、それを純文学と呼ぶのではないか、という考えが私の中にあります。
 普遍性。やっと言葉が出ました。これがどうやら純文学を表すひとつの鍵になりそうです。純文学と呼ばれる作家の作品の中には、普遍的な悩みや苦しみを扱っているものが多いです。例えば、芥川龍之介の『鼻』は、鼻が人よりも大き過ぎた為に、何とかそれを治そうとする僧侶の話ですが、簡単に云ってみれば、これは誰しもが持つコンプレックスについて話していることだと分かります。鼻がもし別の部位であったとしてもこのお話は成立するでしょう。読み手が人目から見て気になっている部分に置き換えて読むことも可能です。なんなら、それが精神的なものであっても構わない。内供は鼻についての悩みを自分固有のものとして捉えていますが、実は読み手からしてみれば、それは別のものにも交換可能な器を持った物語なのです。何故、物語において固有の悩みとして描かれたものが、他のものと交換可能かというと、芥川龍之介が特異な『鼻』を持った内供の話を、誰しもが持っているコンプレックスという普遍的な悩みについて考えることの出来るように、誰にでも分かる文章の形に置き換えているからです。仮にもし、芥川が個人的なコンプレックスのようなものを抱えていたとして、それが誰にでも分かるような普遍性を具えた物語を生み出せなかったとしたら――つまり、普遍性が欠けていた物語になっていたとしたら――その物語は純文学の範疇から外れ、漱石は『鼻』を褒めたりはしなかったでしょう(実際はそんなことは有り得なかったのですが)。
 現代の純文学と呼ばれる作家の作品のテーマを見ても、その中には必ず誰しもにも相通ずるような、時代を経ても変わらないようなテーマが潜んでいます。例えば、純文学作家の中村文則さんは、『教団X』をはじめ、『悪と仮面のルール』や『掏摸』といった著作で一貫して、人間社会の中の悪、ひいては人間自身そのものに具わった悪について描かれています。誰しもが、何かしら気付いてはいるが、言葉には出来ない人間の昏い部分について、物語で分かるように示されています。また村上春樹さんの初期の作品は、若者が人生に意味や価値を見出せなくなっていく時代に、意味がないこと、一見してナンセンスに見えるような人生にも価値がある、ということを初めて肯定した作家であったと思います(恐らく、同じことをやろうとした作家はいたのかもしれませんが、ここまで広く読まれ、影響を与えることになったのは彼ひとりです)。これも、村上さんが描いた物語の中に、共感するような普遍性、誰しもが持っていて、あるいは誰しもが持つことを望んでいる物語が、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』『羊を巡る冒険』にあったからだと云えます。「僕」と「鼠」の固有のストーリーから、読み手は彼らの生き方に共感と憧れを抱いた。それは読者と交換可能な物語だったのだと思います。
 交換可能。二つ目のキーワードが出てきました。三つ目のキーワードとなるのは、(物語と書き手において)固有のものということでしょう。物語において示される事物が現実の読み手が問題とする事物と交換可能というのは、言い換えると、普遍的な問題が誰しもが分かるような文章で示されているということを意味します。また物語において固有のもの(悩み、苦しみといった考えることを避けられないもの)という第三のキーワードは、恐らく書き手自身にとっても固有の悩みや苦しみであることが多いです。第四のキーワードにはその悩みや苦しみと云ったことを当て嵌めても良いでしょう。悩みや苦しみは、一種の愉楽な感情と違って誰も逃れることが出来ないからです。普遍性と個人の持つ固有の悩みや苦しみと云ったものは通常、『普遍対特殊(固有)』と云った対立する概念と考えられがちですが、実は物語がその対立するはずのものの間に橋を架けます。純文学の物語において普遍のものごと(『鼻』においては誰しもが持っているコンプレックスについて)と特殊なものごと(内供の鼻が他人よりも大きいこと)は謂わば上下の位置関係にあると云った方がより正確であると思います。ユングの深層心理の図を思い浮かべるのがてっとり早いです。はじめに、つまり一番上の層に書き手が描こうとしている固有の苦しみや悩みについての考えがあります。ユングで云えば、意識的な層の段階です。次にこの苦しみや悩みと云ったものを文章に置換して、物語の形へと変えていきます。これは意識あるいはそれよりも下の無意識の層の段階と仮定できるかもしれません。この時点では、物語はまだ書き手あるいは物語の人物が持つ固有の苦しみと悩みについて語った物語でしかない訳です。つまり読者固有の経験と書き手もしくは登場人物の固有の経験が物語の中でまだ上手く結びつかない段階です。悩みや苦しみといったものが文章によって他人まで届くほど深く掘り下げられていない。ところが、この物語が個人の内面を深く通過していくことによって、ある種の特異点を迎え、無意識ないし集合的無意識の層にまで到達するような物語が描かれたとき、その物語は他者にも理解し得るものとなり、書き手、登場人物個人の悩みと、読み手自身の悩みが初めて交換可能になります。云うなれば、書き手と読み手の間に物語が小径(パス)を作り上げる訳です。それが純文学の領域で行われていることなのではないかと、私としては思います。村上春樹さんが創作する際において「井戸に降りていく」という比喩を使われるのは、そういった意味を含んでいる気がします。
 普遍性。交換可能。物語において固有。悩み、苦しみといった考えることから逃れられないもの。この四つの鍵を組み合わせて、私の純文学の定義を造り上げるとするなら、以下のようになります。
 
"誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で語っている物語"
 
「誰にも理解されない物事」というのは、書き手個人や物語の人物がもっている固有の経験や考えを指します。それを「語っている」。この場合だと個人的な苦しみや悩みといった考えざるを得ないことについて、物語の形へ変えていくということです。しかしこのままの状態では、「書き手、もしくは登場人物にしか分からない物事について語られた物語」になってしまい、それは決して普遍性を持った物語とは云えず、書き手と読み手の間を繋ぐ梯子は途中で途切れています。恐らくその物語は完全に書き手の独り善がりのモノローグであり、そもそもそれを物語や小説と呼んで良いのかさえ不明です。 
 私はこのことを人に指摘されるまで、気が付きませんでした。誰にも分からない物事を自分だけが分かっている物語にすればいい、と思っている節が何処かにありました。元々、私が小説を書き始めたのは病棟の中で、何にもすることが出来ない場所で、せめて自分を何か表現することは出来ないかと考え、残っていたのがペンとノートだけだったので、それが私の執筆の原点でありました。良くも悪くも。云いたいことは山のようにありました。しかし、あなたの書いているものは小説ではなく、ただの自分語りだと云われたのは、そういったことを指摘する為だったというのが真意だと思います。実際、二年ほど前に書いた作品に対して、個人的な物事について書かれたもの、と仰る方も他におられました。ひとに読んで貰えるような工夫を、誰が読んでもちゃんと分かるような言葉で――少なくとも、自分だけが分かるような物語ではないように――作らなくてはそれはただの自己満足で終わってしまうのだということを教えていただいた気がします。誰にも理解されない物事、自分の苦しみや悩みといった個人的なものを、読み手の人生と「交換可能」なもの、それが誰しもが持っている普遍的なものへ、物語によってならしめること。小説というのは文学的な領域において行われる錬金術のように思えてなりません。
 
 誰にも理解されない物事を、誰にでも理解できる言葉で書ける作家になりたい。それが純文学作家になる、ということではないでしょうか。
 
 言葉の魔術を信じて。
 
 kazuma

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読書録:『書店主フィクリーのものがたり』

 今日は読書録を綴ろうと思う。前からやってみたいとは思っていて、その割には後回しにしてやらなかった。こういうものはタイミングの問題で、やりたいと思った時が、はじめる時なのだ。人生において何かが起こるのは(善いことも、悪いことも)、大抵は時機の問題なのだと思っている。それくらいで丁度良いんじゃないかな、と。この本に出てくる或る警官の受け売り文句です。
 
 今回取り上げるのは、ガブリエル・ゼヴィン著『書店主フィクリーのものがたり』。先日、某新古書店にて一馬書房仕入れを行っていたところ、皆大好き早川文庫(海外翻訳小説)の棚に、この物語が収まっているのを見つけました。いや、内容は全く知らなかったんですけどね汗 それでも書店で目に留まる背表紙のものには必ず意味がある、というのが本好きの間での定説です。まだ新しいカバー装丁で、状態も悪くなく、帯には2016年度の翻訳小説部門・本屋大賞第一位の文字が踊っています。
 
 

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 最初の数頁を読んでみると、気難し屋の古書店店主の元を尋ねる出版営業のヒロイン、アメリアの描写で幕を開けます。主人公フィクリーは島でひとつしかないアイランド・ブックスの店主で、彼はやって来たアメリアに片っ端から難癖を付けて追い返します。アメリアがうちの出版物のどこが気に入らないのか、あなたは何が好みなのかと尋ねると彼は機関銃のように自分の嫌いな小説を羅列します。
 
「お好み」彼は嫌悪を込めてくりかえす。「お好みでないものをあげるというのはどう? お好みでないものは、ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム。おそらくは才気走った定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵――基本的にはあらゆる種類の小細工。ホロコーストとか、その他の主な世界的悲劇を描いた文学作品は好まない――こういうものはノンフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風というジャンルのマッシュ・アップは好まない。文学は文学であるべきで(以下、省略)」
 

 

 
 とまあこんな具合に読書のストライク・ゾーンの狭すぎる堅物店主フィクリーに思わず笑ってしまいました。因みに上記の引用部は延々と続きます。実はこの店主の好みが、物語の鍵を担っているということにはあとで気付きます。
 
 彼が嫌いな小説の種類をリストアップしている中に、『四百頁以上のもの、百五十頁以下のものはいかなるものも好まない』ということがさらりと述べてあります。彼が好むのは短編小説で、それを極めることが出来れば文学を極めることと同じなんだ、という発言をするくらいの短編小説への入れ込みようです。この本は章立てが一枚の扉絵とともにはじまり、各章のタイトルは現実に存在する本の題名と同じになっています。例えば、『リッツくらい大きなダイヤモンド』(フィッツジェラルド)、『善人はなかなかいない』(フラナリー・オコナー)、『父親との会話』(グレイス・ペイリー)などなど。
 
 そこには主人公であるA・J・F(フィクリー)のコメントが書かれてあります。どうも各章の題に使われている小説と、章の内容が対応しているようなのです。更に、扉絵に載せられている小説を全てピックアップしてグーグルで調べてみると、全て短編小説であるという、手の入れようには脱帽でした。著者は相当な本好きであることに間違いありません。フィクリーはこのコメントを誰かの為に書いています。
 
 物語は、妻を事故で失ったり、莫大な価値を持つポーの稀覯本が棚から盗まれたり、店に勝手に子どもを置いて行かれたりと散々な目に遭うフィクリーが、知らぬ間に謎の中に巻き込まれていく、というお話。迷わずに買って正解でした。蓋を開けてみれば、本屋大賞一位も納得の出来。翻訳調の文章と海外ドラマ風の雰囲気(著者はシナリオ・ライターの経験があるようです)には多少癖がありますが、それでも物語の面白さは少しも減じられていません。思わずふっと笑ってしまうような文章の連なりです。読み終えて本を閉じた時、自然と笑みがこぼれていました。
 
 『書店主フィクリーのものがたり』の主なテーマは、ある地点では明らかに不運と見える出来事が、あとの地点になると幸運だったということが分かる、ということだと私は思います。書店主フィクリーの人生は誰がどう見ても散々なことばかりです。妻に先立たれ、本は盗まれ、店に勝手に子どもを置いて行かれる。でも彼はその不運と引き換えに別の幸運を手に入れることになるのです。本人はその引き換えを知らずにやっていることに気付きません。完全に成り行きです。でも、現実の私たちの人生もそんなものではないでしょうか。
 
 不運な出来事というものは誰にも選ぶことが出来ません。ある日、突然フィクリーみたいに謎の中に巻き込まれてしまうことだってあるのです。しかし彼はその不運に見舞われたと思われる出来事の中でも、やっぱり本を信じて生きていく。実はこの物語の主要な人物達は、神様を信じていない、という点が隠されたテーマの中にあるようです。運命なんかちっとも信じていないように振る舞いながら、彼らは変えることの出来ない出来事の中で、もがきます。私がこの物語に惹かれたのは、もしかしたらその部分が一番大きかったのかも知れません。何となく読みながらそのことを感じていました。矛盾の中に引き裂かれながら、それでも日々を続けていく登場人物達の人生に。
 
 アメリアは終章でこんなことを述べています。
 
『私はアイランド・ブックスを心から愛している。私は神を信じない。信奉する宗教もない。だが私にとってこの書店は、この世で私が知っている教会に近いものだ。ここは聖地である。アメリア・ローマン』
 
 もし神様が人間に不運な出来事を与えるのだとしても、その出来事を簡単に投げ出してはいけない。神様が与えた不運よりも、私たちは人間の書いた本の言葉を信じている。そうすればいつか不運な出来事は、巡り巡って幸運へと換わる瞬間が訪れる。著者が云いたかったことは、そんなことだったのかもしれないと、隣に置いた本を見ながら思っている。
 
kazuma

誕生日

 今日は誕生日だった。過去形で書くと既に過ぎ去ったことか、忘れていたことのように映るが、何故か最初に思いついた一文がこれだったので、そのまま書き始めた。
 
 朝はTwitterのフォロワーさんのお祝いの言葉で目醒めた。何だか現代的な誕生日のはじまりだけれど、とても嬉しかった。自分はどちらかと云うと、友人の誕生日にそれとなくプレゼントを贈ったりするのが好きで、逆に自分が祝われることはあんまりない。二月の早生まれだからなのか、目立たないタイプだからなのか分からないが、友人からはよく忘れられている。誕生日プレゼントも、毎回、自分で買いに行っているような人間だから、特に気にしていない。むしろずっと昔に贈ったことが、時間を掛けて忘れた頃に返ってくるのが一番好きだ。滅多にないことだけれど……。
 
 ただ、自分の誕生日に決めていることがひとつだけあって、それは小説に関わるものを必ず買うということ。去年は確か、小説や個人目標の管理の為のシステム手帳を買っていたと思う。三年前は筆名入りのパーカーのボールペンを買った。
 
 そもそもこの個人的儀式(と呼んでいる)は約六年前の出来事に遡り、当時二十歳前後の私は、小説に興味を持ち始めていて、両親から誕生日にパイロットの万年筆を受け取った。当時は習作とも呼べないものをルーズリーフに殴り書きしていて、その万年筆を使っていたこともあった(現在では時々使う以外にはペン立てに差したままだ)。
 
 この辺りのことは過去の記事にも書いたので譲るとするが、細かい事情を除けば、私はどうもその万年筆で自分の小説を書く気にはなれなかった。ペン自体はとても良いのだが、自分の小説は自分の働いたお金で買ったペンで書きたかった。要するに、執筆に関わるものには極力他人を関わらせたくなかった、という結構勝手な物書きの意地だ。だから、三年前には自分で貯めたお金で、名入れのボールペンを買って、現在に至るまでずっと使っている。
 
 今年は、何にしようかと先月辺りにぼんやり考えていたのだけれど、万年筆を是非執筆に使ってみたいと思っていたので、色々調べて悩んだ末にパーカーの万年筆がやはり良いということになり、午前中に大阪で有名な万年筆の専門店にお邪魔した。
 
 入ってみると広さはそれほどないのだけれど、そこには数え切れないほどの数の万年筆がずらり。先客のビジネスマン風の方が二人おられて、待っている間に立ち話を聞いていると何と九州から来られたそうで、店内の写真を撮って楽しそうに帰って行った。
 
 私が、パーカーの万年筆のソネットを探していることを伝えると店主さんは、親切に万年筆のことを詳しく説明してくださり、少し旧い型のソネットと新しい型のソネットを並べてくれた。ショーケースから調べていた実物のペンが取り出されるのを見ると、一瞬だけ気分がオリバンダーの店にいるハリー・ポッターの気分になった(本当にそんな感じがするんですよ! ハリポタ世代なら伝わるかな笑)。書き味を何度か試しているとFのペン先(万年筆のペンの細さ)が自分に合っていることに気付き、ペン先はFで決定。旧い型のソネットは、グリップが軽かったが、新しい型のソネットは金属製(クロム?)で持った感じにある程度の重みがあって、私はその方が好きだったので少し値は張ったが新しい型を選ぶことに。
 
 するとショーケースから試し書きの為に店主さんが、鮮やかな青い万年筆に触れて取り出しているのがふっと見えました。ネットではよく見なかった色ですが、私は青色がとても好きなので、聞いてみると何と同じ型のソネットに青色があるとのこと! 元々は黒とシルバーのものを購入するつもりでしたが、足りない分のお金を下ろす為に、店主さんに待っていただき、コンビニに向かうがてら、店の外に出て深呼吸。そして吟味の末、一目惚れした青色のソネットに名入れをお願いして、購入しちゃいました。一週間後に出来上がるのが待ちきれないまま、お礼を云って店を出ました。
 
 財布は空になったんですけれども、何故か晴れ晴れとした気持ちになっていたことを覚えています。こういう買い方は間違ってないな、と思いました。せっせと働いていた時の自分が報われるような気がして。途中で、ひとり女性の方が入ってこられて、パートナーの方の為に万年筆を探しているということを店主さんに熱心に話されていました。万年筆をプレゼントしてくれるひとがいる、というのをちょっと羨ましく思ったのは、内緒です。
 
 帰る時に、携帯が一度だけ鳴りました。大学時代からの長い付き合いの友人から連絡がありました。今度また飯に行こう、私にはそれくらいが丁度いいのかもしれません。
 
kazuma
 

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現在地

 約十日ぶりの更新。大まかに、週に一度くらいのペースではてなブログの記事を書いていけたらとは思っているけれど、時々色んなものを抛り出したくなる時があって、結局はマイペースに進めるのが丁度よいのだと思っています。
 
 kazumaがネット上から離れているときは大抵、現実で必要な作業を進めているときか、小説に根を詰めているか、あるいは充電中でのらりくらりとしている時なので、そう思っていただければよろしいかと。
 
 今日は自分の現在地をはっきりさせておく為に書きます。
 
 前回の記事から今回までの十日間の期間は、現実に必要な作業を進めていました。具体的に云えば再就職活動です。昨年の年末あたりから本格的に動いていましたが、一昨日である程度の決着と云いますか、一区切りは付いたと見ています。
 
 三日間の体験実習の期間を終えて、あとは手続き上の問題が片付けば、新しい職場で働けることになりそうです。古本に関わる仕事で、且つ、自分の病気に一定の理解がある職場を探していましたが、どちらも満たす求人があり、少しだけ胸を撫で下ろしています。アルバイトのような形ですが、私としては最低限の収入と、小説を書く為の時間、個人の古本屋としての経験を積めるだけの時間を稼げれば、それだけでも有り難いことだと思っていたので、渡りに舟でした。舟は自分で探しましたけれども笑
 
 一般的な就労とは少し違う形態の為、手続きが多少煩雑なところもあり、実際に働けるようになるまでには、もう一、二ヶ月ほどどうやら時間が掛かりそうですが、この期間に丁度、新潮新人賞の締め日があるので、取り組んでいる小説を何とか完成まで持って行きたい。今回は百枚程度でしっかり煮詰めたものにしたいと思っていますが、書いてみるまではやはり分からないところもあるので、進行次第ですね。
 
 今のところはまだ十三、四枚程度の掌編の段階です。プロット自体は練ったので、現実の問題がひとつ片付いたいまは、最後に自由に小説を書ける期間として、思い切り作品に向き合いたいと考えています。三月の頭までには作品にけりを付けて、推敲の後、郵送したいですね。期間が詰まってますが、書き上げる自信はあります。
 
 病に関しては相変わらず良くはなりません。どうにかこうにか凌いでいるという感覚です。悲惨なのがデフォルトの人生ですが、まあ腹括って駄目ならどうにでもなれよ、と思っているところはあります。
 
 溝水を啜って生きている気がしますが、病や一般社会という猫から、鼠みたいにしゃかしゃか逃げ回っては、本というチーズを囓ってひたすら文字を巣にせっせと溜め込んでいるような生き方です。灰色の人生ですが、これが自分に与えられた色なのだろうなと思います。恐らく選択肢は人よりも少ないですが、窮鼠猫を噛む、という諺もあります。本当に追い詰められた時に、自分の書くべき小説が書けるのではないかとも思います。一般的な解から私の人生はことごとく外れていますが、こうするしかなかった。村上春樹の小説に出てくる『鼠』には何となく共感を覚えます。彼だって好きで羊男の出て来る世界に入り込んだ訳ではなかったから。
 
 「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑み込んだ。「わからないよ」
 僕は言葉を探した。しかし言葉はみつからなかった。僕は毛布にくるまったまま暗闇の奥をみつめた。
 「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作り上げてしまったようだね」と鼠は言った。
 「君は世界が良くなっていくと信じてるかい?」
 「何が良くて何が悪いなんて、誰に分かるんだ?」
 鼠は笑った。「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」
 「羊抜きでね」
 「羊抜きでだよ」
 <『羊をめぐる冒険(下巻)』村上春樹著 より引用>

 

 
 何処まで自分が転がり落ちていくかは分かりませんが、元々マイナスしか有り得なかったような人生なので、ちゃんとした本が一冊残れば十分、という私の本心はきっと変わらない。その上で、本に関わることでちょっとでも何か出来たらいいなと思うくらいのもので。他のことは挽回しようがないだろうなと。
 
 人生に対する一般的な希望は病に罹った時に、排水溝に捨ててしまった気がします。期待しても何にもならないことだらけだったので、もういいや、と思う諦めの気持ちがどうしても捨てられなかった。その換わりに代償として言葉と文字を貰いますよ、と心の中で決めていました。苦しかったり、悔しかったりするだけで、何にも残らない人生なんて厭だったので。
 
 今年は、新年の目標にも掲げたように、小説家になるという目標達成のための最後のターニング・ポイントとなる年だと思っています。だから、打てる手は打てるだけ打つつもりです。四月からは文学学校への入学も検討しています。
 
 また実際に小説を書く人と関わっていける年になればと思っています。昨年はネット上を介してオンラインで繋がった方が多くいましたが、今年は実際に会って話してみるということを心懸けたいです。古書店一馬書房としての活動もより本格的に、オンラインの網を抜けて現実へと還元することが出来るようになれば良いなと公私共に思います。
 
 小説を書く人同士が繋がっていけるように、その線を結ぶひとつの点となって、互いを刺激し合い文章を高めていくような繋がりの場を、最終的な段階で作れたらいいなと。その為の下積みとしてこの一年間を使いたいですね。この文章を読んでいる人の中に、お会いする人がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。もし、そんな時が来れば、よろしくお願いします。
 
 初めまして、kazumaです……とご挨拶する日が、いつか。
 
 kazuma
 

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