虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

新年と小説の目標

 皆さん、明けましておめでとうございます。kazumaです。年が明けて三が日が終わり、いよいよ新しい年が始まっていきます。
 
 お正月は何だかあっという間に過ぎていきました。一年の計は元旦にあり、という言葉がありますが、私は目標をようやく今日立てたところです。叶いそうなもの、叶ってほしいもの、叶いそうにないものも全て含めて目標を立てました。謂わば願望のるつぼです。でも、取り敢えず書いておけば可能性は零から零以上のものに飛躍するとは思うので、毎年書いてます。二年前に書いた未来の年表があるのですが、お前それは無理だろう、と突っ込みたくなるものもあれば、実際この二年で叶ったものも実は多くあったので、書いてみるものだなと今日しみじみと見返していました。取り敢えず目標は立てるだけ立ててしまって、後から軌道修正なり、方向転換して現実と目標の距離を詰めていくものなのだと思っています。目印のようなもので、印をつけるのにお金も誰の許可も要りません。紙とペンと想像力さえあれば大丈夫、何だか小説の必要条件と似ていますね。というわけで、このブログの趣旨に沿う個人目標をいくつか載せていきます。
 
 <本年度、kazumaの個人的目標リスト>
 
 *小説部門
 
 @目標
 
 ・新潮新人文学賞 選考突破 【3月31日〆】
 
 ・群像新人文学賞 受賞(したい)【10月31日〆】
 
 ・プロと互角以上に渡り合える作品を造り上げること
 
 ・虚構と現実が等価性を持つ物語、虚構の中の人物・情景・ストーリーと現実を生きる読み手の世界が、文字を読んでいる間、交換可能で、没入でき、且つ頁を閉じた時に、何らかの変化を現実の読者にもたらすことができる作品世界を構築する。
 
 ・最初の一行から最後の了まで、必要のない文章が存在しない小説、読者を虚構世界の中に引きずり込む力を最終行まで保持し続ける物語を書く。
 
 
 @手段
 
 ・短編小説を複数製作し、試行錯誤を重ねた上で納得のいく形にして応募
 ・執筆に関わる時間を必ず一時間以上の枠として毎日設ける
 ・小説のアイデアを一日一つ、ノートに付ける
 ・大阪文学学校への入学(検討中)
 ・創作資料の読み込みを短時間でも継続して行っていく
 ・芥川龍之介カポーティ星新一の作品をどれか毎夜一編読む
 ・上記作者の作品の内、気に入ったものをそれぞれ研究
 ・KDP出版、年内に一作電子書籍
 
 小説関係の目標はまるっとこんな感じです、このブログのプロフィール欄にも掲げていますように、2019年3月31日迄に作家になりたければ、目標期日達成の為には最後の年になります。叶わなくとも書き続けることに変わりはないでしょうが、自分で設定したひとつの期日ですので、腹を括って書きます。一作、一行、一文字が、これで最期の作品になるのだと思う気持ちで。自分の文章でどこまでいけるのかを試したいのです。誰かの胸奥まで、言葉の切っ先が深く到達するように。心の部屋に隠した小箱の蓋を鍵でそっと開けるように。眼の底に沈んだ光景を再び浮き上がらせるように。結果は後からついてくるもののように思います。自分が本当に誰かに伝えたかったもの、伝える必要があったことを物語の形で開いて示すこと、それが私の望みです。黙っていても、願ったりしても、叶うものではないので、自分で書いて叶えます。
 
 いつもノートとペンと言葉の側に。
 
 kazuma
 

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青い蝶

今年は色々と変化のある年だった。公私ともに。月の一つひとつをつぶさに見て行けば、何の変化もなかったような時期も実はそれはそれで必要だったのだと分かる。五月末の退職、十月から始めた古書店『一馬書房』、夏の九州旅行や冬の東京旅行、一年越しの群像向け作品の完成と応募。文藝賞落選。再就職の口探し。終わってみれば、通りに木枯らしが吹いて落ち葉が散っていくのを見ていたようなそんな気もする。五月の桜の青々とした葉もあれば、十月の銀杏のような黄色い綺麗な葉っぱもあった、もう随分と茶色くなって枯れていきそうな葉も、じっと見つめていた。まるで煙草の火に当てられて黒くひしゃげたその形をいつまでも眺めていた。それでもやはり私の感覚としては全て過ぎ去っていって、流れたまま何処かへ――もう手の届かないところへ――行ってしまうのだなと公園や街路のベンチに腰掛けるようにして、思っている。年の終わりには何故かいつも哀しくなる。勿論、今年に何にもなかった訳ではないし、手元に残ったものやこれからも関わっていくひともいるのだけれど、云いたいことはそういうことではなくて、物事はただ終わってしまうのだなという、ホールデン・コールフィールドが学校から、友達から、親から、妹から、社会から、去って行く、その眼が観たような一種の惜別を自分の裡に囲っているような、そんな眼で世の中を見つめて歩いていったら、ここから先にあるものはいったい何なのだろう、その先に何があるのだろうと不安になったりする。
 
善いことだって沢山あったはずなのに、思い出そうとするといつも哀しい思い出の方が先立つのは何故なのだろう。私がそもそも小説を書き始めたのは、あまりにも哀しいことが身に降りかかりすぎたからで、自分の持っているものを殆どと云ってよいほど奪われる体験をしたからで、その前後で私という人間はまるで別の人間になったように思うことがある。それは事実そうだったし、そうなるように願っていたかも知れない。かつて、大学のある友人にお前は暗くなった、と云われた。昔を知っている人間がいまの私を見て話をしたら、間違いなく違和感に気付くだろう。見た目も変わった、いつからか物憂い気分は晴れなくなって、それが通常になった。それから随分と憂き目に遭いながら、破れかぶれで病に罹った後の五年間を生き延びて来た。どこでいつ線が切れてもおかしくなかったし、時々切ってしまいたくもなった。それでも何とか細い細い綱の上を、馬鹿みたいに先に何かがあると信じて渡ってきた。信じた糸は言葉だけだった。そうやって伸びていく糸の端をずっとひとりで握り締めていた。誰がもう一方の端を握っているのか、私は知らない。
 
何故このようなことを書いているのか、自分でも分からないし、あまり分かりたくもない。多分、五年前に橋の上に立っていたからだろう。書いてきた小説は昔のことばかりだ。どうにかして昔の自分を助ける言葉を見つけたかった。けれどもいまの自分を助ける言葉も見つけていない人間にそんな言葉は吐けなかった。いまもずっと出口を探し続けているけれど、答えが見えない真っ暗な暗室の中を歩いている心地がする。必死に書いた作品は、ある尊敬していたひとに徹底的に酷評された。応募した文藝賞には門前払いを喰った。はじめたばかりの古書店『一馬書房』は正直なことを云うと、あまりうまくいっていない。自分はいったい何をやってきたのだろう。才能もなく努力も足りないのかとうんざりした。生きることに割に合うことなんて何一つないなと思った。
 
本当は明るい記事を書くつもりだった。辛い事なんて何にもない、あっても大したことない、大丈夫なんだと振る舞って、来年の目標や抱負も書いたりしてみたかったのだけれど言葉は時々言うことを聞かなくなる。自分の全く思ってもいないことは書こうと思えば書ける。これまでに書いたブログの記事の中にいくつかそういうものはある。でも、本当に言うことを聞かなくなる時が、小説に限らず文章を長く書く人間の中には誰しもに訪れて、そういう時にはただ言葉に従う、従うしかなくなる。そういう時の自分はいったい誰に向かって話しているか、誰に向かって書いているのか、誰がこの文章を書かせているか、分からなくなる。ただ言葉の羅列が象るように指の先から流れていくのを見つめている。
 
どんな文章も誰かに読んで貰うためにある、言葉の向こう側にひとが居る、ということを今年教えてくださった方がいた。本当に迷惑を掛けながら、お世話になったのだけれど、じゃあその向こう側にいる人間とは誰なのか、ということを自分はまだよく分かっていない。今までの作品は自分の為に、ある意味では自分の為だけに書いていたようなところが多分にあった。元々私が文章を書き始めたのは、当時、他に自分を表現するような手段が何一つ見つからず、あらゆるものが制限された病棟のような場で選べるものは、それしかなかったからだ。自分の為に文章を書けば、自分と似たひとはきっと分かってくれるし、自分を助ける言葉が見つかれば、その似たひとも助けられると傲慢にも思っていた。五年書いて最終的に出来上がったのは、歪んだ自意識が生み出したような黒い繭に過ぎなかった。そんな物語では恐らく誰の助けにもならないし、まして当初の目的である自分が生きていくことを助ける文章にはならない。生まれてくるのは美しい蝶ではなく偽物の蛾の類いだろう。それでも私はこの作品さえ、ある部分では愛おしく思う。言葉にならないものが少しは言葉になったから。誰にも分かって貰えなくても、ペンだけは折るつもりはない。誰に向かって書いているのか分からなくなるところまで、来年はきっと書くだろう。その先に誰がいるのかを私は見たい。いつか言葉のサナギが青い羽を持って指先から飛び立つような瞬間に、それはきっと分かる。
 
電子書籍化した作品も元々は自分のために書いたものだったけれども、どちらも何度かリライトをして、読む人が楽しめるように、あるいは読みやすいようにと思って修正を掛けたものを提出している。数人の人にしか見せていない今年群像に応募した黒い繭のような作品は、リライトしていない。三月末〆の新潮向け作品が書き上がり、群像の結果が出て一段落した頃に、落ち着いてやろうと思っている。
 
このブログのプロフィール欄に掲げているように、2019年3月31日迄に作家になることを私は目標にしている。本当にそれを叶えようと思ったら、弾はあと残り二発しかない。2018年3月31日〆の新潮新人文学賞、そして2018年10月31日〆の群像新人文学賞。それが間に合う為の最終ボーダーライン。一発目の弾の結果は2018年4月初旬に分かる。セーフティネット(救済措置)として、再来年の目標期限日である2019年3月31日〆の新潮応募と黒い繭のような物語を改稿したフルバージョンを2019年の頭に撃つことを考えているが、それで仕留められなければ人生そのものを考え直すことになる。だから迎える年は、目標達成の為の最期のデッドライン。
 
来年で小説を書き始めて六年目となる。この年に結果を出せなければ自分は終わりだという思いで、ペンを握って文章で何処まで行けるかをやってみる。このまま終わったらただの犬死にだから。誰だっていつかは人生で一か八かの勝負をしなきゃいけない。賽の目がそれでひっくり返るかは分からない。それでも、ひとに何と云われようと自分はいつか文章で生きていくのだと、誰もいない五年前の病棟の中で信じていたし、いまもそれだけを信じている。言葉の先が何処へ連れて行くのかなんて知らない、何処へでも連れて行けばいい、その為になら何だって差し出す。物語の神様がもし存在しているのなら、自分の魂を明け渡してもいい。人生でちゃんとした一篇の小説が書けるのだとしたら、他に本当に望むものなんて何にもない。
 
十二月の風が吹いて、通りから人々は去り、葉っぱ一枚残らない。そんな場所に立っていても、いつか見えない言葉の蝶が指先から現れて、たったひととき、青い羽根を広げて、自由に踊るように宙を舞う。そんな瞬間だけを夢見ている。
 
kazuma
 

帰還

東京から戻ってきて、ようやく落ち着いた。実りの多い東京旅行だった。行きたかったところへ行って、会ってみたいひとに会った。それだけでもう十分なくらい、東京に行く意味はあったのだと思う。勿論、良いことばかりではなかったのだけれど、このタイミングを逃せば、きっと東京にはもう行けなかった。五日間という長い期間は取れないだろう。一人だけ会いそびれた友人がいたが、またいつか東京に行ける時が来れば会えたら良いなと思っている。物事にはきっとタイミングというものがあって、そういうものはちょっとした巡り合わせのようなものなのだ。ひとつ別の角を曲がれば全く違うひととすれ違うように、誰かと会うということは、人間が決められるようで、実はそうではないのかもしれない。一番大元まで辿って行けば、そこには誰がいるのかということをSFチックに考えたりもするが、知り合うきっかけは偶然であっても、その後を決めるのは人間なのだと思うし、そう信じてもいたい。
 
東京で向かった先はいくつかあるが、三日間は神保町界隈をうろついていた。本の街は、暖かく私を迎えてくれた、ような気がする。靖国通りには古本屋だらけで、街路を歩くだけで気持ちが弾んだ。道を歩いていて気持ちが弾むことなんて滅多にないので、私にとっては特別なことだった。学生の頃に通わなかったことを後悔したが、これもタイミングというものなのだろう。本に関わって、小説に眼が開かれていなかったら、神保町はただの東京の街のひとつにしか映らない。けれども、いまの私にとっては夢の国のようだった。少なくとも千葉にある某夢の国よりはずっと気が利いていた笑 この街ならいくらでも時間を過ごせたし、いくら軍資金を持ち歩いていても足りなかった。次から次へと矢継ぎ早に古本屋に入って行って、欲しい本は掘れば掘るほど出てくる。何なんだこの街は、と浮かれた足で歩くが、財布も軽くなってくるので、これはまずいと思って途中から自粛した。大阪に持ち帰ることも考えて八冊程度にしておいたけれど、東京近辺に住んでいたら毎日通っても飽きることはなさそう。
 
神保町の喫茶店も結構巡った。最初に入ったお店は喫茶ラドリオ。神保町に古くからある喫茶で、昔の文人たちがこぞって通ったそうだ。テレビでも特集で取り上げられていた。普段純喫茶に入る機会もないのだが、勇気を出して扉をくぐってみた。ウインナーコーヒーをはじめて出したお店だそうで、これが信じられないほど美味しかった。こんなに旨いコーヒーを本当に飲んだことがなかった。ランチのナポリタンを頂いて、退店。こんど東京に来るときは必ず来ようと思った。昔の文人たちが通った理由もなんとなくわかるような気がした。店内は落ち着いた会話を交わすひとたちで賑わっていた。こんなところで文学談義が出来るような大人になれたら最高だろうなと思う。
 
古本を色々調達してから今度は喫茶伯剌西爾(ブラジル)へ。禁煙席に入ると、静かな店内。ここでも珈琲がすごく旨い。神田ブレンドというのだそうだ。苦味が良く利いていながらもまろやか。ケーキセットのチーズケーキが絶品で、至福のひととき。このお店で一番よかったのはその静けさで、読書が尋常でないほど捗る。小林秀雄の『ゴッホの手紙』を持ち込んでいて、読んだ内容をはっきりと覚えていた。それくらい集中して読める。ひとり読書におすすめのスポット。
 
また神保町駅前に壹眞珈琲店(かづまコーヒー店)というお店があり、名前の縁もあってこれは入ってみるしかない、と思って寄ってみた。本格的な珈琲店で、お値段的にも私が気軽に入れる感じではなかったのだけれど、一杯ずつ心を込めて淹れる店員さんの様子が伝わり、これこそ喫茶店なのだろうなと、見て思った。勿論、珈琲は格別に旨い。喫茶店の小説描写の参考にしようと思うほど、良い店だった。
 
期せずして何故か喫茶店レポのような記事になってしまって本来の趣旨から外れてしまったような汗 そもそも何故喫茶店巡りをしたのかというと、神保町でひとと会う予定が会ったから。今年の同時期に、古本屋をはじめることをTwitterで話した方が居て、その方は先にお店を始められていた。後から追いかける形で古書店『一馬書房』を開店したのだけれど、もう当分東京へ行ける機会もないだろうし、ご挨拶だけでもさせて頂こうと思っていた。では神保町で、ということでお願いしてみた。その方にも会うことが出来てほんとに良かったと思う。向かったお店は前述のお店ではなく、三省堂書店の中にある上島珈琲店。結局どんな街にいようが、書店の中が一番落ち着く笑 お会いしてみてとても楽しくお話をした、はじめた古本屋のことや小説のこと。東京行きの印象的な思い出のひとつになった。またいつか東京に来た時にお会いできることを楽しみにしている。
 
東京では高校時代からの友人や、大学生の頃の友人とも久々に会った。二人とも元気そうで、東京の街で仕事をしながら日々を送っている。こちらは何とか死なない程度に生きていることを伝えた。東京の友達と会う時はいつもそんな感じだ。生まれて初めて作ってみた一馬書房の名刺を渡して、古本屋をはじめたことや近況を報告した。話は自然とほかの友人達のことになった。あいつは元気でやっているか、この前某と会った、今度誰々が結婚する……。ひとと会ってみると、会わないと分からないことが分かったりする。自分が大阪にいる友人と、東京に居る友人を少しでも繋げられるような役割を果たせればなと思っていた。卒業して皆ばらばらに散って、はいそれで終わりなんて、あまりにも呆気なさすぎる。それで終わるような友人も多くいたけれど、そうでない友人だって指で数えるくらいは居る。こちらに繋がりたいという意思があって、それを相手にちゃんと伝えていれば、巡り合わせというものはやってくるのだと思っている。それでも会えなかったり、会わなかったりしたとしたら、元々縁がなかったか、もうその縁が切れてしまっているのだろう。
 
だから時々、ひとがひとと会うとはどういうことかを考えたりする。そのテーマは前回の群像向けの小説にも、この前、電子出版した『時計の針を止めろ』にも少し盛り込んだつもり。会いたいと思っても会えるわけじゃなかったり、こちらがそう思っていても向こうはそうは思っていないということもある。逆に、会いたくないと思っていた人に偶然出くわしたり、会えるわけがないと思っていたひとに突然会ったりすることだってある。何がどこで繋がるかなんて人間の理解の範疇を超えている。終わりだと思っていたことがはじまりだったり、はじまりだと思っていたことが終わりだったり。東京の街はまさにそんなことを考える象徴の街だった。
 
でも、この街のどこかにかつての私たちはいて、ばらばらに散ったいまもそれぞれの通りを何処かに向かって歩いているのだと思うと、ほんの少しだけ足が軽くなった。
 
東京は冷たい街でも、そこで生きて歩いている人たちまで冷たくなってしまった訳ではなくて(すれっからしのようなひともそりゃいるけれど)会って話をしてみれば同じ言葉を話すひとなのだということ、住んでいる環境が違っていても伝わるものはちゃんと伝わるのだということを、理解したような気がする。何だか遠い異国のように東京を書いたが、私にとってはやはり憧れだった街であることに変わりはない。今度戻る時には作家として、という大それた望みを胸の奥に秘めながら、きょうもちまちまと文字を書いている。いつか言葉のレールが東京に届くまで。
 
kazuma
 

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お知らせ:kazumaからのクリスマス・プレゼントがあります。何度もお知らせするようで申し訳ないですが、電子書籍著作の新作『時計の針を止めろ』と旧作『私はあなたを探し続ける』がKindleストアにて両作品とも無料でダウンロードできます。告知じゃないかと突っ込まれそうですが、一生懸命書いた作品たちなので、どうぞ受け取ってください。明日の26日16時59分までやってます。アマゾンのサイトで作品名を入力するか、著者名の『武内一馬』と入力すると作品頁が出ます。一応、下にもリンク貼っておきますのでよろしければ、どうぞ。メリー・クリスマス。
 
時計の針を止めろ

時計の針を止めろ

 

 

私はあなたを探し続ける

私はあなたを探し続ける

 

 

東京行き

東京行きの荷造りを大体終えた。明日から出発する。多分、この時期を逃したら当分、東京へは行けなくなる。今のうちに行っておこうと思っていた。
 
前に東京に行ったのは昨年の夏だったはずだ。上京するときはいつも不安が半分と期待が半分。不安の方が少し勝っているかも知れない。それだけ、東京には憧れがあった。何の根拠もなく、昔から。
 
列車に揺られているときに大学生だった頃の自分をよく思い出す。きっと今回も思い出しているだろう。一年毎に東京に向かって昔の知人と会ったりしているが、自分が曲がりなりに東京で大学生活を送っていた頃から成長できたかどうか疑わしい。人間の成長って何だろうなと、東京でばりばり仕事をして日々を送っている友人たちと会う度に思う。彼らは既に大人になって、私は未だに中途半端な存在のままでいる。少なくとも普通の道は全く通らなかった。時々、もし東京に残ったままの自分というものが存在していたとしたら、彼はどんな風に生活を送っていたのかと考えて、すぐに止める。これは私の悪い癖だった。違う道に進んで行ったらどうなっていたんだろうと、殆ど無意識にその道の先を想像して、その地点にいる彼と自分が立っているところを比べる。最もそんな地点は最初から存在しておらず、従って分岐路の向こうに立つ彼も姿を現すことはない。ただの空想、夢想、怠惰な時間……。新幹線の窓を見つめている私はいつもそういうことばかり考える。それから、忘れる為に眠りに就く。浅い眠り。瞼は閉じたり開いたり、虚ろなまま、身体だけが東京の街へと運ばれていく。
 
私には珍しく今回の東京行きは予定をきっちり埋めた。今回の東京行きが終わったら、もう当分は向こうへ行けないだろう、ということは分かっていたから。次に向かうときは、願わくば作家になった形でと心の奥底では思っているが、それがいつ叶うかは分からない。まだ自分の文章がプロに追いつくものではないと気が付いているし、作家になる以前に人間として駄目だったら、多分また東京で同じ事を繰り返して、躓いて、帰ってこなくてはならないことになるだろうと思っている。この東京行きが終わったら、大阪に戻って、もう一度小説の武者修行をするような気持ちでいる。それと同時に、私も人間的な成長を遂げなくてはならないとも思う。もういつまでも学生もどきの若者で通用する年齢ではなくなった。どういう形になるか今の時点で全部分かっている訳ではないのだけれど、何らかの形で社会の中へ戻っていって働いていかなくてはならないと思う。病は未だにあるが、それでも自分の歩幅を信じて歩いて行くしかない。苦しむことはもうこの地点で分かっていても、それでも押し分けるようにして進んで行かなくてはならないタイミングというものが人間にはあるのだと思う。そこから逃げることも出来るけれど、どうしても逃げられない地点というものも確かに存在している。だから今度の東京行きはその区切りとして、行くつもりだった。
 
東京では文学関連のところに足を運ぼうと思っている。神田神保町の古本屋街や、田端の文士村記念館。小説にまだ眼が開かれていなかった頃の大学生の自分は、そういう場所に中々足を運ばず、大学構内やバイト先の狭い世界の中をうろついていた。そこから出れば見えるものが沢山あるのに、何にも気が付いていなかった。その日その日で精一杯になっていたが、本当はそんなものある程度放り出して、行きたい処へ行けば良かったのだ。ただその時の自分は小説という常に向かうべき道と目的を示すコンパスを持っていなかったから、何回やり直してもぐるぐる迷って同じ道を辿ったような気がする。私が大学生活で得たほんとうに欲しかったものは、そのコンパスひとつだった。自分が何処に向かえば良いか、何に打ち込めば夢中になれるか、価値観を変えて視野を広げるものが何であるか、それを知るためだけに大学生活はあったのだとさえ思う。結果的にそれを分かったのは校舎の外でだった。それは東京でさえなかった。地元に戻ってきた病棟の中でだった。随分とひどい大学生活を送った。得たのは僅かな友人とそのコンパスだった。他には何にもなかったと思う。
 
何とか大学を卒業して、それから地続きにここまでやってきた。未だに社会には馴染めないまま、いつも周りから浮ついている足を咎められているような思いがする。でも、自分にはこうやって生きていく以外に道を選んではこなかったし、選ばなければ別の道は存在しないのだ。自分の人生で間違っていないことがただひとつだけあるとすれば、それは小説を選んだことだ。他のことでどれだけ間違って、他人から笑われることになっても、小説を選んだ自分のことを笑いたくはない。次に行くときはちゃんとした人間になって、もう地元に戻ってこなくてもいいようになりたいと東京行きの準備をする度に思っていた。実際に行くのはいつも破れかぶれのままの私だ。ただそれでも去年よりは、一昨年よりはと、這うように進んで、向こうに居る友人達と話をした。彼らは彼らで東京を日常とする社会人として忙しなく真っ当な日々を送っている。私はいつも彼らに気後れして会う。友人たちは何の屈託もなく受け入れて話をしてくれる。けれども自分には厭と言うほど分かっている。自分が東京で、社会で上手くいかなかった人間であるということが。それでも友人や知人との縁を切ってしまいたくはないから、やっぱりひとと会う。切りたくない縁まで切ってしまうのはもう嫌だった。いまはそうやって細々とした繋がりの中で生きている。これまでの期間、ネット上の繋がりも私にとっては大事なものだった。ただ東京から帰ってきたら、もう一度現実社会の中に戻っていこうと思っている。虚構の中だけで息を吸って朝食を食べることは出来ないと、分かったから。だからこれは虚構から現実に戻る旅なのだと思う。私は今回の旅行をそんな風に勝手に思っている。
 
ここで筆を置きます。また一週間後に。
 
kazuma
 

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KDP第二作『時計の針を止めろ』の無料キャンペーン本日開始です。

こんにちは、kazumaです。今日は告知の為に書いてます(お忘れの方がいらしゃらないか、念の為に汗)。
時計の針を止めろ

時計の針を止めろ

 
12月9日より販売を開始しました拙著『時計の針を止めろ』(副題:STOP THE CLOCKS)ですが、現在、kindlestoreにてお知り合いの方が作品を購入してくださっています。ありがとうございます! 前回より半歩でも前に進んだところを、より多くの方に、作品を通して伝えることができればと思い、無料キャンペーンの第一弾を行います。
 
期間の再掲ですが、第一回無料キャンペーンは、本日12月13日17時から14日16時59分まで、作品の無料ダウンロードが可能となっております。

是非、この機会にkazumaの作品をDLして読んでくだされば、著者として大変嬉しく思います。また、読み終えた後に、感想やレビューも大歓迎ですので、アマゾン当作品レビュー頁もしくはツイッター個人アカウント、ツイート、メール、ブログコメント欄など、どんな媒体でも受け付けております。

 
また、今回のキャンペーンは事情があって間に合わないよ、という方の為に第二弾の無料キャンペーンをクリスマスに行いますので、今回を見合わせる方は是非次回無料キャンペーンの際にご検討くださいませ。
 
では、今日の17時からの『時計の針を止めろ』(武内一馬著)の無料キャンペーン第一弾の本日、ダウンロードして作品の中でお会いしましょう。
 
ではでは、告知記事でしたー。
 
Kazuma