虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

古本DAYS

お久しぶりですね、約10日ぶりの投稿となります。最近は一馬書房として動くことが多く、こちらのブログを更新できないままでしたが、時折更新したりはするので、お暇がある時にでも見てやってください。一応、息はしております笑
 
十月一日に古書店『一馬書房』をオープンしてからというもの、結構家に籠もりがちな生活が続いておりました。あまり人間的な生活を送っているとはいえませんね汗 朝起きたら、本を読んだり、古本屋のサイトに商品を一冊アップしたり、午後は小説を書いたりのそんな生活を送っていました。五月までアルバイトしていた時は、嫌でも外に出てひとと会い、ぶつかったりしながら生活を送っているという感じでした。それはそれで、きつい生活を送っているという感覚がありましたが、いまの缶詰のような日々も精神的に辛いものがあって、やっぱり人間は外に出て太陽の光を仰いでひとと喋ったり、仕事したりすることがどこかしら必要なのだと思います。ミステリの安楽椅子探偵のように部屋にいながらにして問題を全てを解決してしまう、そんな人間はフィクションの中にしかいないのだということを痛いほど分かったような気がします。本当は自分の部屋の中で全てが事足りてしまえば良いのですけれど、きっとそういう風には人間は造られていないのでしょうね。
 
十一月にもなりましたが、相変わらずの古本漬けの日々を送っています。古本DAYSです。人間的に成長した気は全くしないのですが、文章だけは少し枝葉が伸びて、爪の伸び具合くらいには成長しているのではないかという思いはあります。ただ文章は賞を獲るなどして結果に表れたりしないので、そこが辛いところではあります。原稿用紙に何百枚とものを書こうと、それは眼に見える数値とは決してならず、ただそこには物語があるだけです。それが誰かに届けば良いですがいまのところその兆しはありません。応募した群像の発表は来年五月に選考結果発表ですが、正直に云うとそこに辿り着くまで何にも手応えを得るチャンスもないというのは苦しく感じられるというのが本音です。
 
時々、自分は誰に向かって小説を書いているのだろう、ということをよく思います。一番最初に書き始めた頃は、ほぼ99.9%自分の為でした。こんなことを云うと変な奴だと思われるかもしれませんが、私は結構自分が書いた物語を読み直したりするのは好きです。但し、その時自分が取り組んでいる作品に限りますけれども。前回のものといまのものを比べると毎回眼も当てられないところがあって、その度に前の作品を燃やしたくなりますが、でもその時書いていた自分はいいものが書けたと確かに思っているんですよね。常に前回のものを燃やしたくなるくらいは成長していたい、そうでなくてはプロまで届かないような気がします。いま書いているものも、自分ではこれが決定稿だと思っていても、ずっと先の未来ではそうは思っていないかもしれない。そう思うと、私は言葉のひとりリレーをやっているような気がします。目の前には、未来の自分が白線の上で待っていて、彼に向かって小説のバトンを渡していくような。あと何周すればゴールテープが切れるだろう、と。私は未来の自分のために小説を書いているのかもしれません。そのバトンがいつか私以外の誰かのもとまで届く日が来ればいいのですけれど。その日を迎えることをいつも待ち侘びながら生きています。
 
余談ですが、今日のブログは古本屋で買ったBill Evansのアルバムを聴きながら書きました。他の音楽とかだと駄目ですけれども、ジャズだとブログの記事くらいは書けるのかも。今まで聴いたこともなかったビル・エヴァンズのアルバムを偶々古本屋で見つけて、村上春樹の『ポートレイト・イン・ジャズ』を読んだときに気になっていたので、初めて手を出してみました。これ何時間でも聴けますね笑 タイトルは『escape』です。現実逃避したいからタイトルで選びました笑 おすすめの一曲を載っけときます。では。
 
kazuma
 

第61回、群像新人文学賞に応募しました。

今日は強い雨風が吹いています。郵便局に行ってきました。新人賞の応募原稿を抱えて。

 

昨年の十月から書き続けていたものなのですけれど、仕事のことがあったり、辞めた後は古本屋のことや体調が思わしくない日々が続いていて、結局丸一年も掛かってしまいました。実は物語そのものは完全な完成にまでは至っておらず、それでも目標としていた群像新人文学賞の〆切りが近付いてきていた為、一旦筆を置いてもおかしくないところで、物語を切り、応募してみることにしました。応募原稿は原稿用紙換算枚数232枚で、250枚の規定内に収めましたが、実際の原稿は360枚強まで来ており、400枚程度の作品になりそうです。年内までにそれを仕上げて、形にした上で、次にも勝負を掛けていかなくてはなりません。翌年三月〆の新潮に意地でも間に合わせたいですが、日程のことと、それ以上に精神的に苦しい日々が続いていて、年を明けるどころか、年内までの自分さえ上手く想像することが厳しくなっています。一歩進めば壁が立ちはだかり、後ろに退けば落とし穴に落ち、右を見ても左を見てもどこにも希望が見当たらない、そういう日々の中を綱渡りでもするように、生きてきた気がします。これが自分の人生なのかと眼を背けてしまいたくなることばかりで、眼を閉じてもその現実の景色は消えることなく在り続けます。言葉を読んで物語の中に沈んでいける時は、そんな景色でさえも泡の淀みのように消えていきますが、自分の抱えた病の為か、それとも他の何かの為なのか、いまでは物語を読んだり書いたりする為に集中すること、それ自体が難しいことのように思えます。けれども、私が本当に生きていられるのは物語を通してのことなので、ペンとノートを握っていられる間は、文章を打ち込んでいられる間は、誰に何と云われようと書き続けるしかないのだと思っています。それを手放してしまったら、その時が終わりなのだと。他のものは全て何処かに捨ててきたような気がします。幼い頃から、私が何かをしようとするといつも決まって邪魔をするような人が私の周りにはよくいました。彼らは後ろ指を差して人間を嗤い、ひとが何年も掛けて積み上げてきたものを無駄だと否定し、何か別のものを見つけるとそれは駄目だと批判し、何をやっても、どんなことをしようと、ひとが必死に組み上げた言葉の積木を粉々に砕き、燃やし、ゴミ箱にぶち込んで、袋にまとめてこんな汚いものは要らないと云って、私の全てであるその木片を棄てさせようとします。私はいつもそのぼろぼろにされた言葉の積木が残された後に、木屑のような言葉を集めて、またもう一度それでお城を造ろうとします。でも、そんなもので立派な言葉の王国が造れるものでしょうか。自分を縛る足枷が何にも無かったら、誰にも邪魔されないで小説を書いていられたら、私はそれで機嫌良くいつまでも言葉の世界で遊んでいられるのに、いつだってどんなお城も破壊されてしまうのが世の常です。他に望んでいるものなんて、何にも無いのに。それひとつさえ叶えば、ほかのものなんて、何にも必要はないのに、どうして自分にはそれさえも叶わないのだろうか、普通の人生を諦めて滅茶苦茶な人生を送るだけでは足りないのか、いつもそんなことを胸の奥に仕舞って誰にも云わないままで、物語にだけほんとうのことを話します。私は潰れた人生の破片を拾ってそれで小説のお城を造ります。見た目は不様で、窓も壁もなく、それはお城と云うよりもプレハブ小屋にさえ見えないかも知れません。でも私に残された材料は、他のひとたちが持っているほど沢山もなく綺麗でもなく彼らの云うように汚くて醜いものばかりだったから、それで歪な形の言葉を生み出すしかなかった。ほかのものは皆全て、人生に棄てさせられたか、自分で棄てたかどちらかのもの。たとえ私の手元に残っているのが一本の枝木しかなかったとしても、私はその枝先を握って砂の上に文字を書き、物語を書きます。燃やされた言葉の灰で、みすぼらしいお城の輪郭を描き、粉々に砕かれ潰された人生の木屑を集めて、壁にもならない壁を造り、隣にはしっかりとした造りの豪邸が建っているのを見上げながら、私は隠れることも出来ないその歪んだ言葉の骸達を、お城だと信じてそこに棲みます。ひとびとはあいつは馬鹿だ、気が狂っていると云われるにしても、私にはそれ以外の人生を望むべくもなかった。これから先に待ち受けている――もう既に現れているその未来は、きっとそんなものだろうと思います。

 

原稿を郵便局に出した後、雨の街を歩きました。いくつもの水溜まりを踏ん付けて、靴の底には水が溢れ、隣の車線を白いバンが駆け抜けて、水飛沫が半身に掛かりました。風は強くて時折傘を両手で持たなくてはなりませんでした。それでも、家に戻るその短い道のりを何故か忘れることができずに、俯き加減だった顔をほんの少しだけ上げて、何でもないただの路地を歩いたことを、帰ってからも馬鹿みたいに思い出していました。結果が落ちたとしても通ったとしても、その何の変哲もないアスファルトの色を、私はきっと思い出すだろうと思います。

 

kazuma

『一馬書房』公式Twitterアカウントを立ち上げました

 今日は『一馬書房』に関するご報告をひとつ。それから私個人の今後の動向についてお伝えします。

 まず表題の件ですが、この度『一馬書房』公式Twitterアカウントを立ち上げることとなりました!

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 アカウント名は、【一馬書房@kazumashobo】となります。

 

 見出し表記、久々に使いました笑 こちらの公式アカウントでは、主に新商品の入荷情報や、一馬書房の日々の近況ツイート、Blogの更新通知などを主に行います。もしフォローしてもいいよという親切な方がいらっしゃいましたら、そうしてくださると私としては嬉しい限りです。フォローを頂ければ、基本的にフォローをお返しします。またこちらからフォローさせて頂く場合もありますので、気に入って下さった方は、どうぞ宜しくお願いします。これでやっと公私混同ツイートを免れられる笑

 一応このブログは一馬書房のアンオフィシャルサイトという位置付けです。私の中では現実を軸としたものが、古書店『一馬書房』での活動、虚構を軸としたものが小説執筆及び、当サイト運営を含めたオンライン上のkazumaとしての活動と考えています。

  •  公・現実・オフィシャル(Public):古書店『一馬書房』店主 KDP出版著者 
  •  私・虚構・プライベート(Private):小説執筆 『虚構世界で朝食を』 

 公(Public)での活動は主に、漢字表記としての本名及び筆名。私(Private)での活動は主に英字表記としてのkazumaとして活動を行います。両者ともにひとりの人間であることには間違いがないのですが、この前、公私両方を知る知人に違う人間が書いているように思える、という主旨のことを云われました。多分、文章を書く『私』と、そうでない『私』は、同じ”I”(アイ)でも別人のような気がするのは書き手である自分も思うところがあります。書き手ではなく生身の人間としての自分は結構、支離滅裂なところだったり、ちゃらんぽらんなところがあり笑 ただ、文章を書いているときの自分は、そういったものから離れられるように感じることがあるので、そのことでよく救われています。書いている間だけは、まだまだ自分も捨てたもんじゃないな、と自惚れですが、思っていられるのです。私から書くことを奪ったら、人生は何にも残ってはいません。百パーセント、零になるだろうと思います。いつか小説家としての活動を公に加える日が来ることを私は信じています。

 

 私個人の今後の動向についてですが、いまは年内に新人賞応募作品を提出すると決めています。文藝賞においては惨敗に終わり、華々しく散ったので、改稿を加えたのち、KDP出版第二作として発表したいと考えています。おそらく新人賞提出後ですので、年末になるかと。あと、年内に東京に一度行けたらなあという思いがありますが、この件に関してはまたいつか。

 

 それでは、今後とも古書店『一馬書房』と『虚構世界で朝食を』を宜しくお願いします(ぺこり)。

 

 最後に、最近お気に入りの萩原朔太郎の詩を。

 

 座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼をひろげる
 蝶のちひさな 醜い顔とその長い触手と
 紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。
 わたしは白い寝床のなかで眼をさましてゐる。
 しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする
 夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語
 水のほとりにしづみゆく落日と
 しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

 夢をみながら わたしは幼な児のやうに泣いていた
 たよりのない幼な児の魂が
 空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのように泣いてゐた。
 もつともせつない幼な児の感情が
 とほい水辺のうすらあかりを恋するやうに思はれた
 ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

 あたらしい座敷のなかで 蝶が翼をひろげてゐる
 白い あつぼつたい 紙のやうな翼をふるはしてゐる
 
 ――引用・『蝶を夢む』萩原朔太郎

 パブリックドメインの為、全文掲載。

 

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 kazuma

 

 

 

サイコロをもう一度振る

 10月に入って様々な心境の変化があり、喜ばしいことがあったり、哀しいことがあったりの目まぐるしい日々でしたが、ある意味では今日でひとつの区切りが付きました。

 古本屋のことも、小説のことも、あるいは人間関係も、それぞれに現実を突き付けられたように思います。いままでわざと自分に目隠しでもするように欺こうとする面があったのは自覚していましたが、ここに来て色んなツケが回ってきたのかもしれません。まだ返済していない人生のツケは山のようにあって、相変わらず最低な日々を送っていることに違いはありません。それでも何とか息はして、古本屋のことをやったり、本を読んだり、ものを書いたり。他の事なんて何にも望まないから、そういう落ち着いた日々さえ送ることが出来たらいいから、と常々思うのですが、現実はいつまでもそんな夢を見続けさせてくれるものではないですね。

 それでも現実が虚構より優れているとは思いません。現実はただ強度があるということだけで、色んな可能性や夢や希望をいとも簡単に踏みつぶします。ですが、それが強いからといって、虚構よりも優れると考えるのは多分間違っています。もしこの世の中から全ての虚構が消えたら、何と味気ない日々がそこに待っているでしょう。現実があるから、虚構の夢が見られるんだというのはごもっともですが、それなら逆に、虚構の夢から現実が形作られることもあるのだということを逆説的に私は信じています。

 社会学の言葉に「構築」と「再構築」という言葉がありますが、社会的事物Aは、自らのルールや規範等の枠組みを通り抜けた他の事物を【事物B】へと「構築」するのですが、一旦「構築」が終わった事物Bは、今度は逆に自らを規定し生み出した事物Aを「再構築」することによって、元々の事物Aを【A’】の形へと変容させます。事物Aが現実で、それが生み出した事物Bが虚構とあてはめてみると、虚構が現実そのものをねじ曲げてしまうことがあるのでは、と私は思います。優れた本、小説や物語にはその力があります。例を挙げると「聖書」がその最たるものだと思います。

 この二千年間で最も読まれた書物は常に聖書でした。言い方は少し悪いですが、もし聖書というある種の虚構を表す本がこの世になかったとしたら、人間の歴史はいったいどれほど塗り変わっていたでしょう? あるいはマルクスの「資本論」がなかったら?   

 SF好きなので話を大きくしてみましたが(デカすぎですね笑)、もっと近い例で云えば、村上春樹の本がなかったとしたらどうでしょう。毎年のノーベル賞騒ぎもなくなります、ハルキストがテレビ画面の中で落胆することもありません。今年のカズオ・イシグロ氏の受賞報道はもう少し淡々と流れていたでしょう……平穏ではありますが、面白くはありません。春樹の本がこの世から丸ごと消えたら、私の本棚の棚ひとつ分が空いてしまって寂しいですし、『1Q84』がこの世になかったら、小説に救われるような得難い体験のひとつが消えてしまうし、もしかしたら私は彼の作品が存在しないことで、全く違う種類の物語を書くことになっていたかもしれません(いち物書きの私も影響は受けたので)。下手をすると物語を書いていなかった可能性さえあったと思います。

 このように虚構の中の物語が現実そのものを変えてしまう力を持つ場合があるので、私は物語のことを信頼しています。そこにあるのは単なる文字を象った記号ではなく、意味を持ったひとつの王国のようなものだから。そこにはヴェールに包まれた女王である理想が棲んでいます。言葉さえ追っていけば、望んだものも、予期しなかったものも両方を見られる。たとえどんなに現実が辛いものでも、本や虚構の中に物語を読み取る余裕さえあれば、虚構は現実以上に私に多くのものを与えて、現実に痛め付けられた傷を癒やしてくれます。そういった物語を生み出せるようになるために物語を書いているところがあります。物語を読んでいる間だけでも、現実の強度を超えていくものを。でないと書く意味がない、少なくとも私個人には。

 

 虚構の為に、もう一度人生の賽を振ります。

 

 Payin' anything to roll the dice Just one more time.

 

    kazuma

 

 
GLEE Full performance of "Don't Stop Believing"

 

落選と奈落

 何度目の落選だろうか。そろそろ回数が分からなくなってきた。六、七回目くらいだと思う。文藝賞の結果は惨敗だった。今日の朝は色々あってよく眠れず、それでも今日は発表の日なのだからと朝10時頃に梅田某書店へと向かった。文芸誌の場所は最初から知っているから迷いもせずに通路を抜けて、平積みの文藝の頁を開いた。目次に選考結果の部分を見つけて何の躊躇いもなく開いた。四次、三次、二次、一次……。

 当然どこかにはあるだろうと高を括って自分の名前と作品名を探した。見開き一ページに他の人の作品名や筆名ばかりが並んでいた。去年の選考にも残っていた何名かの名前も見た。一度目に見た時、これは何かの間違いだろうと思って、また最初から見ていった。それを四回ほど繰り返した。なかった。それから私は何かとてつもなく莫迦なことをやっているような気がして、文藝を放り投げるように閉じ、恥じ入る気持ちで俯いて書店を出た。他のページはもう見たくもなかった。吐き気がした。

 街へ出ると、行きの淡い期待を抱いていた自分とは全くの別人になっていた。景色の色が歪んで死に絶えた。もう何も見たくはなかったが、現実は私に正しい色を教えようと目の前をちらついていた。

 梅田のスクランブル交差点には、幸福そうな顔を浮かべている何人ものひとがいた。私はポラロイドカメラのファインダーでも覗き込むようにして、笑っている顔をひとつひとつ切り取っては眺めていった。両目の網膜にそれらを順に映し出した時、彼らにはきちっとした生活があって、皆意味のあることをやっているのに、自分が五年懸けてやってきたことはいったい何だったのだろう、ということを思った。撮り溜めた言葉のフィルムなんて、彼らの生活に比べれば、全て取るに足らないくだらないものに思われてきた。他人の名前だらけの選考結果の見開きに、突然胸ぐらを掴まれて、殴られるような思いがした。それから不機嫌な顔をしたまま、笑顔を浮かべている人々と何とも言わずにすれ違って横断歩道を抜けた。何を見ても、何を考えても、何もやっても、全てが白々しかった。どうしてこんなに上手くいかないことばかりなのだろうか、全てが莫迦莫迦しく感じるのは自分が阿呆だからなのかと、まるで悪い呪文でも唱え続けるみたいに心の中で無限に問いを繰り返した。古本屋に必要なものだけを買って、あとはどこにも余所見せずに一直線に帰った。問いは家に帰っても収まらなかった。必死に書いて編み上げた物語が、門前払いで否定され、突き返されるのは、好きな女の子に無様な振られ方をするよりも暗澹たる気持ちになる。部屋に帰ってから、自販機で買った80円の安っぽくて全く味のしないブラックコーヒーを飲み干した。缶を誰もいない壁に向かって投げつけた。白い壁に茶色い染みが残るのを何の感情も纏わない眼で見つめていた。ごろごろと転がって動くことを止めたアルミ缶は、煙草の灰皿の中で死に絶えた幾層もの灰のように、いつまでも視界の端に残り続けた。それから既にもう掠れ掛かっているボールペンをペンケースから抜き取り、ノートを開いて、文字を書いた。インクが切れた滑りの悪い筆先に力を入れて握った。形の不揃いな言葉の連なりがいくつもノートに跡を残していった。現実が『これが正しい色なのだ』と私に見せつけてきても、私は真っ黒の文字で埋め尽くされたノートを突き返して、ペン先の虚構が描く間違った色を信じようと思った。誰もが描いてなぞろうとする正しく上品な白色よりも、間違いだらけで塗りつぶされた黒色の方が私には親しみが感じられた。色のない人生なんて嫌いなんだ。

 

泥沼の中を言葉と共に沈む。

 

kazuma