虚構世界で朝食を

Breakfast at fiction world

帰還と未来

 取り敢えず旅からは還ってきました。数日前に自分の考え方を変えるような出来事が色々と起こり、非現実のような世界から現実の世界に戻ってきました。まだ少し浮ついている気もしますが、気持ちを塞いでいたものが落ちたように、今では前向きに古本屋「一馬書房」の準備を進めています。旅先で出会ったものがあまりに非現実的な偶然が積み重なったものであったので、逆にその因果の鎖から放り出された後では、却って普段の日々でさえもが不思議なものに思われます。長い夢を見た後に、布団から起き上がって、あれ何だっけ、何でこんな夢を見ていたのだろう、と首を捻りながら思い出すような感じがします。憑きものがひとつ取れたようにも思えますが、また別の考えに憑かれているようにも思えます。志賀直哉の「小僧の神様」に出てくる狐にでも化かされているような。いや、良い夢だったんですけどね笑

 とはいえ、最近の私の現実の生活というものも少々浮き世離れしたものになってきました。退職してからはあまりひとと会うこともなく、黙々と小説を書いたり、古本屋の準備を進めたり。まるでドストエフスキーの「地下室の手記」の男のようにも思われてきますね。まああれほど怜悧にはなれませんし、人間味もまだ保っている方だとは思いますが、四ヶ月もこういう生活を送っていると、世間的な感覚とは大分ズレてくる感じがします。もともとそういうものとは埋めようのない溝を感じていたので、それが時間が経ってはっきりしてきたというだけのことですが。多分、次にまともに社会と関わるような日が来るとすれば、作家になった時以外にはないと思います。出来るだけその日が早く来てもらわないと困る笑

 ここ何日か、健康保険料の前納の支払いや、年金の支払いなどがあって、金銭的にそろそろ現実を見ないといけないように思えたこともあって、将来について考えるようになりました。辞めて三ヶ月くらいは何ともなかったのですが、その点に関しては、ぴしゃりと頬骨を叩かれたような感じがするというか。いまのところは実家暮らしなので、二、三年は持つぐらいの額ですが、そこから先が本当に見えないところがあるので、もうがむしゃらにでもやるしかないと思って。思うしかなかった。

 ある意味では、もう自分はどん底の一歩手前を綱渡りしていると思います。ツァラトストラの道化師みたいに試されたら地に墜ちてしまうような感覚があります。多分、旅に出たのもそう自分で分かっていたから何処かに逃げ込みたかったからかもしれません。芥川の侏儒の言葉での競技場の喩えが思い起こされますが、彼だって窮すれば通ずといって最後まで小説を書き上げた。私に出来ることは、出来ることで足掻くしかないということです。それは現実の中ではオンライン古書店の「一馬書房」、もう一方の虚構の中ではいま書いている小説。その二本の車輪を精一杯廻して、何とか生きていかなくてはなりません。芥川が人生の最期に選んだ結末とは別の答えを必ず見出さなくてはいけない。そういうことは十九の時に罹った病によって考えさせられたことで、それは小説の中での一貫したテーマでもあります。終わらせることを考えるのは簡単だけれど、それが解決になるのかといったらそうではないということは、人生の経験の上でも、あるいは個人的な思想信条から言っても違うということを分かっているつもりです。まだ言葉の音楽を最期まで聴いていない、それを文字に出来てはいない、それが出来るまでは終わりにはしたくない……。単純ですが、私はそういう虚構の神様を信じているのです。色々とハンデを背負わされることが沢山起こったし、いまでも見えない十字架でも背負ってるように思えるけれども、まだ読みたい本はあるし、古本屋だってやってみたいし、物語を書くペンを止めたくはないし、話したいひとだっている。まだ足掻きたいことが残っているから、本当に駄目になるところまで、とことん追い求めてみたい。それで綱から落ちなくてはいけなかったとしたら、落ちていくその時までペンとノートを握りしめています。そしたらフィッツジェラルドのギャツビーみたいに緑の灯火の向こうが見えるかもしれない。そこに手を伸ばして、明日は昨日よりももっと遠くまで、もっと速く。

 

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあの時我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差しだそう。……そうすればある晴れた朝に――

 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

(『グレート・ギャツビースコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳より引用)

 

  Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter ― tomorrow we will run faster, stretch out our arms further…And one fine morning ―

 So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

 (Quote from  "The Great Gatsby" F.Scott Fitzgerald )

 

  河の流れの向こうにある本当に手に入れたかったものに手を伸ばすまでは。

 

   kazuma

 

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Everybody wants to get started

 

 誰にも行き先を告げないで家を出た。出口も分からないままに列車に飛び乗った。現実の世界を離れて、長くて短い夢を見ているようだった。決して見ることはなかったはずの夢を、窓の向こうに本当に見ていた。そんな景色は空想の中でさえ見なかった。扉の向こうには誰かが待っていた。待っていてくれる人がこの世にいるとは、本当に思えなかった。誰かと待ち合わせをしたら、待っているのはいつも自分の方だった。街で隣を歩く人もいなかった。いつもひとりで道を歩いて、誰の顔をも見ることもなく、帰ってくると心の奥底で声も出さずに静かに泣いていた。答えが何処にも見つからず、昼の十二時に夜の十二時の中に居るみたいだった。太陽はただの一度も昇ることはなかった。苦しいときはいつも月ばかりを見ていた気がする。哀しいことや辛いことが多過ぎて、それを誰かに打ち明ける勇気も無かった。列車の白線を踏み越えた時に、自分の人生のレールが切り替わって、本当なら辿り着くことのない地点に向かってサイコロを振った。誰かと一緒にサイコロを振ったら、何年も同じ目が出ることがなかったのに、何故か道の先に待っていた人は同じ目を出してくれた。何もかもを投げだそうと、落ちていこうとしていた自分を最後の網の目のように受け止めてくれていた。心の底から笑ったことなんてもう何年もなかったから、笑った後に笑っている自分に驚いていた。隣に座っているだけで救われる思いがした。ただ相手にとってもそういう存在になれたのかは分からない。むしろ自分の我が儘のせいで傷付けさえしたのではないかと思う。我が儘を言える相手なんて誰も居なかった。相手は私の望むものを何でも与えてくれたのに、私は相手が一番望んでいることを与えられなかった。いつまでも同じものを見つめたまま笑っていられたのならどんなに良かったろう。

 書いている小説の主人公はいま自分がいる世界とは別世界に足を踏み入れて、そこでかけがえのない人に出会う。けれどその人は元の場所に戻りなさいと言う。あなたが元の居るべき場所に戻りなさいと言う。私のことは大丈夫だからと、ひとりで行けるところまでは生きていくからと。そんなことは嘘だと分かっている。嘘を付いてでも相手は私の幸福を願ってくれた。本物の嘘つきだったらそれに答えを返せたかもしれない。でも、そんな答えを相手は望んでいなかっただろう。そのひとはいつも海岸に打ち寄せられた綺麗な貝殻のような本当のものを探し続けてきた。偽物のダイアモンドがどれだけ綺麗でも、そのひとはそれに手を伸ばさずに、自分の眼に映った輝くものを探し続けていくだろう。もし私が本当に真っ白な貝殻だったなら……。

 帰ってくると泥のように眠った。夢の中でもう一度そのひとの夢を見た。朝になって、目が覚めて、そのひとのくれたCDをエンドレス・リピートで聴いている。

 

 魔術の旋律がいつまでも続いてくれれば良かった。いつまでも夢を見ていられたら良かった。

 

 if you somebody who is right.
 if you find you knew that it was right.

 Cause
 Everybody wants to get started

もし、あなたがそのひとだったら

もし、あなたがそのひとだったと分かっていたのなら

誰だって、何かが始まってしまうことを望んでいる

 

 

 始まったのなら、終わって欲しくなんかなかった。

 

kazuma

 

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旅に出ます

 これから旅に出ます。探さないでください。別に死ぬわけじゃないけれど笑 ただ、人生のレールが切り替わるポイントに立っている気がします。いつまでも同じ道が続くと思っていたある日に、知らない間に別の街に辿り着くことがあります。思わぬところで誰かに導かれて、知らない景色を眼にするように。それは心の何処かで一番望んでいて、一番叶わなかったことかもしれません。

 

 真っ黒なオセロは反対側に駒があれば、全て真っ白に変わります。反対側に誰かがちゃんと立っていてくれたら、人生のオセロゲームは全部ひっくり返せてしまうかもしれません。そういうことです。いままではただ真っ黒の墓標ばかりが増えていくだけだった。墓に名前が彫られたって誰も救われない。エリナ・リグビーの墓を訪れたのは神父マッケンジーだけだった。

 

 この先がどうなるかは分からないけれど、進んでいく道を間違っているとは思いません。

 

 『ああ、神様。私たちはお互いのものだったのよ。あの猫は私のものだった』

 (トルーマン・カポーティティファニーで朝食を』より引用。ホリー・ゴライトリー)

 

 kazuma

 

 追伸:帰ってきたらすぐにオンライン古書店『一馬書房』の最終準備を致します。あと少しで開業しますので、もうしばらくお待ち下さい。

 

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古物商の申請許可が下りました

 今日は、読んでいる方にひとつご報告が。といっても、表題の通りなんですが笑 何だか十日に一回くらいの更新ペースとなっていますが、超スローモーションに生きているのでお許し下さい。書くときだけは一・五倍速くらいになっているつもりです(当社比)

 約三ヶ月前から、オンライン古書店の開業に向けて動いていました。サイトを作ったり、ロゴを作ってみたり、独自ドメインを取得したり、古物商申請書類を揃えたり……etc。多分、他の方がやったらそれこそ二ヶ月くらいで全部終わらせてしまうような気もしますが、極度のマイペース症候群なので、亀のような歩みで進んできました。ただ、最後の古物商許可だけは物理的に日数が掛かるので、気長に待ちながらその間に小説の執筆の方を進めていました。私が警察署に申請に向かったのは、七月の二十四日で、それから書類不備を直したり、営業所の確認があって、許可証を実際に受け取ったのは三日前の八月二十三日でした。丸一ヶ月は掛かった計算なのですけれど、受け取った時には喜びもひとしおでした。始める前から満足していてどうすんだろう笑

 偶然、Twitterで同時期に古本屋を始められている方がおられて、その方はリアル店舗の形でお店を開かれています。五月辺りに確か古本屋をはじめたいと思っているというネット上の会話をした覚えがあって、次の月には店をオープンされていて、自分なんかじゃ追い付けないなあと思いながら、ちまちま作業をしたり、文章を書いたりしていました。
 開く予定のサイトがBASEというECサイト(ショッピングサイトを無料で作成支援するもの)がベースになっているので、どうしても古物商番号の掲載が必要だった為、許可が下りるのを待たなくてはなりませんでした。大分前から、店を開きたいという発言を繰り返していたのですが、現実に行動を移す迄にかなり時間を掛けたと思います。無いとは思いますが、待っている間は許可が下りなかったらどうしようか、なんて考えていました。小説を書くことと同じで、殆どひとりでやっているようなものなので、時々意味も無く逃げ出したくなるような気持ちになったりもしたのですが、それがひとつ形になってくれたような思いもして、他の人から見たらただの許可証一枚ですけれど、それを見て唇の両端を上げたくなったのは確かです。

 

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 (上記写真:古物商の許可証。思っていたより手の平サイズです、名刺くらい。2017.8.23取得)

 書籍商のプレートも申し込みました。十日後くらいに来るそうです。玄関に掲示の義務があるので到着次第、取り付けを行います。あとは再びサイトの構築をすることと、梱包材等を入手すれば、一応の準備は整うことになります。オープンは九月頃を予定しています。何とか間に合わせたい(汗) マイペースの亀なりに頑張ります。
 いま一番気になっていることは、書いている小説のことで十一万字を超えて、原稿用紙三百枚超になったのですが、まだ終わりまで辿り着いていないことです。計画では八月中に仕上げて、九月頭に東京に行って、帰ってきたら古本屋の準備を始めるつもりでいたのですが、私自身の怠惰も手伝ってかなり厳しい状況です。内容に関しては、いままで書いたもの中で最も自分の考えや心情を抉り出していると思いますが、これはあくまでも書き手としての甘い視点なので、実際に読まれた方がどう見るのかは正直なところ分かりません。ただ、武内一馬名義で出している電子書籍の一作目(「私はあなたを探し続ける」)といま書いている途中の原稿の両方を読まれた信頼できる方がひとりだけいらっしゃって、その方は一作目と比べて、化けたと云ってくださいました。勿論、指摘事項も沢山あったのですが。いま書いている作品は、電子出版したものから数えて三作目にあたります。文藝に出したのものは二作目となり、これは落選がほぼ確定したので、改稿後に電子書籍として発表します。一応、選考がどこまで行けたのかを知った上で出版したいので、文藝冬季号の発売の十月を待ってから電子出版する予定です。

 とにかくいまは何とか作品を書き上げることだけを考えて残り僅かな八月の日々を過ごしたいと思います。時々、こうしてブログでご報告が出来ることが私にとっては支えになっています。ネットの網の上では、時々思いもよらない形で誰かに支えて頂くことがあり、現実の網の上にはなかったものが、ここではセーフティネットとなって、言葉が受け止められているように感じることがあります。このブログを始めたときに、これがモノローグではなくダイアローグになることを信じると言いましたが、見えないようだけれどもばらばらに散在している点が少しずつでも繋がっていけばいいと、私は思っています。

 

 ではまた、近い内に。

 

 I am always drawn back to places where I have lived, the houses and their neighbourhoods.(Truman Capote, "Breakfast at Tiffany's")

 

 kazuma

 

 

 

 

 

 

進展

 しばらくネットの世界から離れていた。多分、十日くらいは経ったんじゃないかと思う。一応、現実世界での報告をいくつか。
 この十日間で一番のビッグ(?)ニュースは、古物商の許可申請の手続きが進んで、四日前に警察から営業所の確認があったことだ。営業所といっても、ネット古書店なのだから、ただの自宅であって、机の上にパソコンが置いてあって本棚があるだけのことなのだけれど。古物商の申請で担当してくださった刑事さんが来て、机の写真と本棚を作業場の写真としてぱしゃぱしゃ撮っていった。不意に文学部だったかどうか聞かれて、質問には勿論、イエスと答えた。それからちょっとした話をして、ものの数分も経たない内に帰られていった。刑事さんは忙しい。私のような暇人に時間を取らせてしまうのも何だか申し訳ない気持ちになりながら、それでも十日後辺りに許可が下りれば許可証を取りに来るように、と云われた時は、嬉しかった。多分、申請は通ってくれていると思う……。

 いま書いている小説は原稿用紙換算で270枚を超えた。小説は量ではなく中身であることには違いないが、眼に見える数字というものも自分が確かに歩んできた言葉の道程を示す距離のように思えて、少しばかりマラソンランナーのような気分にはなる。書きながらランナーズ・ハイの気分の時は最高だ、読み返すとその部分だけは本当にこれを自分が書いたのかと不思議になったりもする。自己満足と云われればそれまでだが、多分作家になるような人間は、自分の書いた文に関して自己肯定するようなエゴイズムがなければものにならないような気もしている。自分が信じてもいない文章を他人に読ませるのは不実であると思う。枚数の話に戻すと、原稿用紙換算250枚以内というのが、狙っている純文学賞(群像、新潮)の応募規定となっていて、多分いま書いている話はどう書いてもその枚数に収まらないので、メフィスト賞に出そうと考えている。メフィストの規定分量なら、問題は無い。ただ基本的にはエンタメの賞というのが唯一ひっかかる。Twitterで、いままでこの賞に応募されてきた方(藤崎さん)にいくらか話を伺ったが、カオスな賞であるということを話されていた。HPと応募要項と出身作家を見れば何となく気付いていたが。取り敢えず、対策のつもりで第一回受賞者の森博嗣の『すべてがFになる』を読んだが完全に理系ミステリの化物だった。というか、恐らくこの賞は、小説の化物みたいな人間ばかりが受賞している気がする。純文だって上に行けばそれは同じなのだが、小説のベクトルが明らかに違うように思っている。喩えるなら、小説のひとつひとつの歯車をいかに美しく仕上げるかという点よりも、そのひとつひとつの歯車を組み合わせていって、どれだけ精巧な仕掛けの造りのものが出来るかを競っているかのような、そんな印象を受けるのである。これは、個人的な純文とエンタメの違いの意見だ。面白ければ本になる、という言葉の方を私は信じたい。この後、藤崎さんに教えて頂いたメフィスト賞作家の中で純文学寄りの作品を書いた白川三兎の『プールの底に眠る』を読むつもりでいる。

 今日は百貨店で古本市をやっていたので行ってきた。二時間くらい粘って売り場を回って、結局買ったのは文庫本四冊で、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」とジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」の二巻以降を買った(一巻は所持)。古本を買う時に決めているルールがひとつあって、それは自分の本棚に絶対に入れておきたい本かどうか、というのを私はひとつの基準にしている。安い、というだけの理由で買い漁っていた時期もあったのだが、いざ買ってみて並べてみると、コメントを付ける気にならないような本はいくら安くても買うべきではないし、これも文章と同じで、自分が良いとも思っていない本をお客さんに売るのは、お客さんに対して不実であるように思う。この点に関しては異論を唱えられても仕方ないが(文章とは違って古本屋は商売なので)、私はその点には拘りたいなと思うし、それが自分の店のカラーというか特色になってくれるんじゃないか、とやる前から思っていたりする。いずれにせよ、少しずつ準備は進めているので、オープンが秒読みになれば、また告知させて頂きたく思っています。
 最後に、三末に応募した文藝賞なのだけれど、選考連絡の電話がなかったので、九割九分九厘、落ちていると思う。落選はこれで五度目だろうか。割と自信がない訳ではなかったので、悔しい気持ちもあるけれど、それ以上にいま書いている小説にのめり込んでいる。受かるまでやるだけだと思っているし、私に残された道はそれ以外にないと、ずっと昔に腹は括っている。なんなら小説と心中しても構わない。自分の骨を埋めるのは言葉と虚構の中にしかないと思っている。だからいつか、虚構で(自分の本を売って)朝食が喰えるようになったらと、そのブログタイトルのような瞬間だけを信じて、行けるところまで行ってみたい。

 文藝賞に落ちた作品は改稿後、電子書籍として発表するつもりです。一応、武内一馬名義の第二作となります。いま書いている小説を読まれた方が一名居られますが、できればこの三作目は、実際の本になってくれることを信じます。
 遅くなったので、今日はこれまで。本当は20時頃からこのブログを書いていたが、弟が実家に帰ってきて久しぶりに話をしていたので、途中までしか書かなかった。

 

 see you again.

 kazuma

 余談:因みに我が弟は、プルーストの「失われた時を求めて」を読破していた。今日会って古本市で見つけたジョイスの本の話題を持ち出すと、一年前に全巻読み終えていた、と聞いて心底驚いた。弟の方が小説家になれんじゃねえか笑 と思ったが、やはり腐っても兄貴なので、小説家になるのは私の方だ。書くようには薦めてみたけれど、他のことで負けてもそれだけは負けるわけにはいかない。あと全然関係ないけど、メフィスト賞シャーロック・ホームズ像は死ぬほど欲しい。乱歩賞のものと同じものだってさ。

 

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